最果てより愛を込めて
秋の冷たい風は少し余所余所しい。澄んだ空気が窓から流れ込む、日付が変わる20分前のドライブ。 助手席で、ボクは新開さんのうさぎのケージをしっかり抱いて座っていた。 運転席の新開さんの頬が周りの車のランプに照らされる度にぼんやりと光を灯す。 ロードバイクとは全く異なる太いタイヤの音、エンジンの唸り、風の声。白いレンタカーの中はひとつの世界だった。 控え目の音量でラジオが言葉を紡ぐ。喋っているのか歌っているのかも分からない、ただ音だけの絶妙なボリュームだった。 ボクは、只座っているだけなのにこんなに速く走れる自動車って不思議だよなあ、なんてつまらない事を考えながら、新開さんと、その向こうの景色を見ていた。 つまらないついでに、冗談のつもりで零す。 「新開さん、車だとそんな速くないんですね」 「おいおい、オレにスピード違反で捕まって欲しいのかよ」 「もしロードだったら、きっと新開さんはパトカーより速く走れますよ」 「試してみようか?」 「ふふ、新開さんが言うと本気っぽくて怖いです」 笑いながら正面に向き直る。真っ直ぐ進行方向を見る新開さんの美しい横顔を見続けていると、胸が一杯になってしまうから。 新開さんの隣という特等席にボクがこうして収まっていること、高校生の時のボクが知ったら喜びで倒れてしまうかもしれないなぁ。自然と口元が緩む。 あんなに誰かに憧れたこと無かったな。こんなに誰かを好きになること無かったな。 新開さんの背中を追ってきたこれまで。手を繋いで、肩を並べて、頬を寄せて、唇を結んだこれまで。 ボクの幸せは常に新開さんの傍に在り続ける。それが嬉しくて、むず痒くて、大切で、愛おしい。鼻の奥がツンとする。 「海が見える所が良いですよね」 「平坦な道があるともっと良い」 「山の無いところ」 「スプリンターは山が苦手だからな」 新開さんがこちらを見てにこりと笑う。1秒間目が合って、新開さんはまた前を向いたけれど、ボクらは声を合わせてくすくすと笑った。 唸り声をあげて、車は速度を上げていく。神奈川県がそこで終わってぐんぐんと後ろへ離れていく。ちらりと後ろを見るけれど、そこにはただ風景が転がっていた。暗くてよく見えない。 道に終わりは見えなかった。ただただ真っ直ぐな国道を行く。自転車競技でスプリントを得意とするボク達は、こういう道を見ると、とにかく速く走りたくなる。 だけど今は車に乗って進んで行く。汗を流すことなく。本当はスピードを出して進んでいる筈なのだけれど、どうも自動車って分かりにくい。 だから少しむずむずとしてしまう。ここを自転車で一気に走り抜けることが出来たらって。確認しなくても分かる、新開さんも同じことを思っている筈だ。 遠くから信号機が波のように黄色と赤色を流してきた。赤い川が出来上がる。止まれ。この川は危険な川だ。そしてボクたちはこれに乗って遠くに行かなくてならない。 川のほとりで立ち止まり、ちらりと目を合わせたボクたちは、どちらからともなくそっとキスをする。触れるだけの温かな口づけを。 もう一度振り返ると、どこからが神奈川県なのかもうよく分からない。ボクと新開さんは、街を捨てた。 レンタカーには必要最低限だけを詰め込んだ。うさぎのウサ吉くん、サーヴェロ、BH、衣類、思い出を少々。置いてきたものは全部もう無い物と思わなくては。 どこまで走って行けるかは分からない。ボク達が安心できるところまで。ボク達が静かに暮らせるところまで。 「夢みたいです」 「そうか?」 ボクは大きく一呼吸した。冷たい風が肺に浸透する。夏の暑さを忘れていない体に捻じ込まれる異物感。 この感覚だけで、世界(正しくは季節だけ)が変わってしまったと思えてしまうのだった。 「これからのことを思うとどきどきしてしまいます」 「うん、俺もだよ。塔一郎」 返事の後、新開さんが欠伸をかみ殺すように口元を歪めた。多分ボクに気を使わせないように我慢しているんだと思う。 勿論見てないフリが出来ないボクは、時計を見てから提案した。 「すみません新開さん、そろそろ日付変わる頃だし、交代するかお休みするかしましょう」 「はは、悪いな塔一郎。そうだな、今日はここまでかな」 愛してるよ、と低い声がボクの耳をくすぐる。自分でも分かるほどボクの顔は熱くなって赤くなって、小さい声でボクも愛しています、と呟くので精いっぱいだった。 新開さんがかわいいなぁ!と爽やかな声で笑って、こう言った。 「いやあ・・・おめさんと一緒になれて本当に良かった、ありがとよ」 世界で一番愛する人と一緒に居ることが出来る幸せをボクは手に入れた。そしてそれ以外のほとんどの幸せや、普通の人生に於ける当たり前の事は、ボク達の手から零れ落ちた。 ボクがそれを拾うことは無いだろう。その手は固く新開さんと繋がれていた。 浅瀬で満ち潮を待つような気分だった。零れ落ちた全てはいつか波に攫われて、ボクと新開さんだけが残るのだ。 車は、国道沿いの古びれたホテルへと吸い込まれていった。 title:花眠 |