春まで




「バレンタインって御存じですか?」

 と、顔馴染のトレーナーの少女に尋ねられた時は、そんなに自分は世間ずれした男に見えるのかな、と少々苦笑した。 勿論知っているよ、と答えると、彼女は心底ほっとしたかのように良かった、と息を吐いた。 いつもお世話になっているので、チョコレート用意してきたんです、そう言って破顔すると、可愛らしい包みを両手で差し出してくる。

「いつもありがとうございます」

 バレンタインというのは不思議なもので、愛を伝える行事だなんて言われておきながら、交わされるチョコレートは大抵義理チョコと呼ばれる、そういった意味での愛が詰まっていない種類のものだ。貰ったら貰ったで本当に嬉しいのだけれど、バレンタインの愛の行事的な面に囚われて行動できないでいる自分の不甲斐なさを否応無しに実感させられて、なんとも言えない気持ちになる。 義理チョコなんていう便利な大義名分…と言う名の言い訳だって、簡単に用意できるのに。


 そこまで悩んでおきながら、肝心のあの人はこんな行事知っているだろうか。はたと疑問に感じて、顔を思い浮かべる。正直、これはシンオウ地方の伝統行事という訳でもないし、カレンダーやテレビで目にするだろうけれど、若い人が騒ぐようなイベントにあの人は敏感な方ではないだろうなと推察する。
 ・・・もしかするとさっきのトレーナーも私に対してそんな印象を持っていたのだろうか、と思いついて、年の差というのは全く難儀なものだな、眉間に力が入った。


 あの人・トウガンさんは奥さんを亡くしてから一人息子のヒョウタ君を強く優しく育ててきた。そのヒョウタ君が、ジムリーダーという父親と同じ職を得て独り立ちして、トウガンさんは今、自分の仕事と自分の人生に時間を費やしている。その第二の人生ともいえる時間に男の私が恋人として乱入するのは、世間的に見て実におかしな話だし、ヒョウタ君とも顔見知りである身としてはやはり理性や世間体や倫理や様々な事柄が引っかかって、どうしてもその場に立ち尽くす他無くなる。

 そう思いながらもいよいよ抑え難い気持ちにまで育ててしまって、自分の心の異常さに頭を掻きむしりたい衝動に侵される。トウガンさんの豪快な笑い声や強い光の眼差しや筋肉の付いた眩しい肌や、暖かな性格や、そういった全てを含んだパーソナリティーが私を離してくれないのだった。男だ女だというのは最早関係ない。人間として、彼の性格が、波導が、私を引き付ける。

 ふう、とため息を付くと、私に寄り添うように歩くルカリオが、にやりと笑う。ルカリオには波導で理解されてしまうから隠し事なんて出来ない。
 私とトウガンさんの奇妙な関係と、私がトウガンさんをそういう目で見ようとしていること、ヒョウタ君と奥さんの事を考えて踏み出せないでいる事、なんかはルカリオの波導の力で今にも溢れて露呈してしまいそうに危うい。本当に、難儀なものだ。



「そういえば今日はバレンタインデーなんて記念日だそうですよ、知っていますか」
「おいおい、わたしをオジサンだと見くびっていないか」

 結局私は、ご丁寧に高級ブランドのチョコレートをコトブキにまで買いに行って、彼女さんにですかなんて聞かれて、はがねタイプが好きな人だから、と言うと銀色のリボンできれいにラッピングしてもらって、そんなこんなで気付いたらミオシティに居たのだった。道中自分がもらった方のチョコレートを食べながら向ったが、なんとなく覚悟がきまっていく気がしていた。糖分は脳の栄養だ。ルカリオと半分ずつにして、弱気をねじ伏せるように頬張った。


「昔ヒョウタがな、子供の頃、妻と一緒にチョコを作ってくれたもんだよ」
「おや、可愛いことしていたんですね」

 ミオジムの頂上は鉄鋼がぶつかり合う音に満ちていて、物理的にも空間的にも周囲から隔絶された状況になる。そこに二人して座り込んで、ラムの実の蒸留酒を包んだボンボンを味わう。トウガンさんに買ってきたというのに、彼は私とルカリオにもチョコを勧めて、美味い物は大勢で食べた方がいいな、といつものようにグハハと笑った。

「ヒョウタの奴、いいもの入れておいたよなんていうから、モモンのジャムでも混ぜたのかと思ったんだが、なんとアイツ、化石掘り覚えたての頃だったから、真似して金剛石を入れやがったんだ」

 まるで当時の事を思い出そうとするかのように、トウガンさんの青褐色の瞳が天井を見る。数秒してふうっと息を付くと、笑いながら言った。

「すぐ気付いたから良かったが、危うく差し歯になるところだった」
「金剛石ならそのまま差し歯の素材に出来ますね」
「ははは、馬鹿をいえ」

 そんな昔話に笑っていると、なおの事その家族の思い出を穢すことに罪悪感が芽生えて、銀色のリボンなんか自分で解いておけば良かったと胸が軋む。言葉と感情が抵抗し合って、柄にも無い黙り方をする。乾いた咳払いが小さく零れる。帽子の鍔を頷かせる。チョコレートの為に外されたトウガンさんの軍手に手が伸びそうになって、止まる。
 落ち着きの無い様子の私に呆れてか、ルカリオがちくりとした波導を放って後、器用にミオジムのリフトを降りて行った。おいおい、アスレチックじゃないんだぞ、とトウガンさんが驚いた声を上げて笑った。

 窓の外には冬の冷たい海が満ちている。穏やかな時間に幸福を感じながらも、その先の欲望に目が眩む。
  私の人生を捧げますから、貴方の第二の人生を、私に幸せにさせてください。
 ・・・チョコレート一箱と引き換えにするには、あまりにも望みは欲張り過ぎる。

「バレンタインデーのお返しは一か月後だったか?まったく暇な奴が考えたお祭りだな、ゲンよ」
「あは、お返し頂けるのですか。私は意外と甘い物にはうるさいですよ」
「グハハハ!まあ楽しみに待っていなさい」

 気持ちと裏腹な涼しい言葉で、どうにか赤い心は誤魔化せただろうか。

 冬の海が解けて柔らかな陽光を反射する頃、貴方からの甘い味を口中に溶かして、そうしたら欲張りの5分の1くらいのセリフは言えるかもしれない。今日は止めよう、あとひと月待とう。只でさえ年齢差がある私達だというのに、また言葉を先延ばしにしてしまう。
 本当に本当に、難儀なものだなぁと一人笑うと、トウガンさんは私の気持ちも知らないで、顔を覗き込んで、眩しい色で笑うのだった。