心さえも





アデクさんに頂いたタマゴから孵ったメラルバが夏、ウルガモスに進化した。進化の瞬間、眼前に現れた幻とその意味、答えとするところを僕は未だに見つけられていない。枯葉のひとひら、秋がそろそろ終わる。アデクさんが居なくなって一年が経つ。



メラルバのタマゴを手渡された日もいつものように修行を付けてもらっていた。勝ったり負けたり、アデクさんとのバトルはポケモントレーナーとして勉強になったし、彼の経験や思想に触れることは僕自身の成長にも大きな影響を与えてくれた。
その日のバトルはギリギリで競り負けた。アドバイスなんかをもらってそれでは帰ります、という時に「ちょっと待っていてくれるかの」アデクさんに引き留められたのだ。

「チェレン、これを育ててやってくれないか」
「タマゴ、ですか。中は・・」
「秘密じゃ」

アデクさんの笑顔はたまに子供っぽい。いつもと違うその顔で言われてしまえばそれ以上追及も拒否もできなくなってしまう。不思議な人だなと思う。雄々しい風貌やチャンピオンとしての風格からは想像できない面が、出会ってから今までの少し長い(それでもアデクさんの人生の中ではほんのほんの僅かの)時間の中で次々と現れる。チャンピオンである以前にアデクさんだって人間で、ポケモントレーナーで、僕みたいに少年だったのだ。
それはとても当たり前のこと。時間が流れることだって、離れた年齢が追い付かないことだって、当たり前の。

「孵したらこいつでアデクさんに勝ってみせますから」
「ああ、楽しみにしている」
今となっては後だしじゃんけんだけど、このとき少しイヤな予感が胸を過っていた。着衣が土埃でくすんでいることなど毎度のことなのに、いつもよりよれて見えるそれの色が今でも目に焼き付いている。
「それじゃ。ありがとうございました」
「気を付けてな」

その半月後、アデクさんは誰にも何も言わないで、姿をくらました。アデクさんがどこへ行ったのか誰も知らない。あれ以来誰もアデクさんを見ていない。



メディアや市民はアデクさんが亡くなったと口を揃えて言った。少しでも面識のある人は一言もそんな風に言わない。アデクさんがリーグを飛び出すなんてよくあることだから。彼の屈強さを十分理解しているから。今回は四天王の人たちも行く先を知らないけれど、誰にも告げなかったらしいけど、きっとただの偶然だ。僕だって信じている。信じて、いる。
失踪してしばらく、それまでは連日こぞって報じられていたアデクさんについての報道も、時が経てば止んでしまった。着任した新チャンピオンの話題にイッシュが湧いていたからだ。若くて強いチャンピオン、僕の幼馴染のトウヤ。時々リーグに行っては彼と戦うこともあった。だけど今までアデクさんの場所だったのに、もう違うのだとふと気が付いてから足が遠のいた。母やベルが心配して優しい言葉をかけてくれたが、ニュースがやらなくなっても季節が変わっても胸にぽっかり空いた穴はどうしても埋まらなかった。




「タマゴ、もらったんです」
「師匠にか」

驚いた顔をしたレンブさんと今、タワーオブヘブン。アデクさんの亡くなった相棒に、彼が居なくなってからたまに会いに来ていた。アデクさんに会いたくて。アデクさんの面影を欲しがって。レンブさんと出会ったのは偶然だった。

「ねえ、アデクさんはあなたにも何も言わなかった?」
「・・・ああ」

吹き荒れる風の冷たさに、思わずこの頃発熱するようになってきたタマゴを抱き締める。アデクさんの忘れ物。僕がこのポケモンでバトルすること、楽しみって言ってたじゃないか。

「師匠はお前を可愛がっていたな。戦いを教えてもらっていたろう」
「これからだって教えてもらいます」
「…二月で連絡が来ると思った。三月も経てば、帰ってくると思っていた。」
「もう、待たないんですか」

レンブさんが鳴らした鐘が曇り空に鈍く渡る。悲しい音だった。隣のケンホロウがいやに震えると思っていたら、雪が降り出した。モンスターボールに入れてやる。

「アデクさんは帰ってくるよ」
「・・冷えてきたな。チェレン、お前も早く帰れ」

階段を下るレンブさんの足音の細さ。蹲って一層強くタマゴを抱く。
大人はみんな、割り切る、諦める。フリをする。レンブさんのかっこつけ。ただ待っているだけでいいのに、決めつけでものを言うんだ。僕はまだまだ子供だと、自覚しているけれどより実感する。少し笑っちゃう。
もしアデクさんなら、僕やレンブさんが居なくなってもいつまでだって待っていてくれるよ。帰ってきたとき少しだけ叱って、笑っておかえりって言う。だから僕も笑って待っていたいのに、子供だから、大人ではない、アデクさんでもない。かっこつけることすらできない、時間が僕を大人にしない。時間が経てば僕は大人になるけれど、経てば経つほどアデクさんは遠くなる。アデクさんが、帰ってこない。
胸の中でタマゴが震えた。音を立てて殻が割れていく。脈状に広がるひびの中から目を覚ましたポケモンは、メラルバだった。
温かい感触。アデクさんのウルガモス。パソコンのボックスを結局いつまでも使いこなせなかったアデクさんは、自分のポケモンもそういえば全部持って行ってしまった。その中の、ウルガモスの。
幼い声のメラルバが真っ直ぐ見つめてきた。僕の涙を拭ってくれる。声をあげて泣いたことなんて今まで一度もなかったのに。





メラルバが孵って半年程経った。夏になっても相変わらずアデクさんは帰ってこない、メラルバはなかなか進化しない、トウヤは未だ無敗でチャンピオンの座を守っている。
一人の修行に飽きると、たまにレンブさんに手合わせをしてもらえた。彼にアデクさんの話はタブーのようで、シキミさんに釘を刺されてしまった。
ゆるやかで密度の高い時間を過ごしている。このままアデクさんの不在が埋まってしまったらいやだな。メラルバ、ねえ、いやだよ。声にだすのは恥ずかしいから、エスパータイプみたいに心の中で言ってみる。
イッシュ北東のエリアを回る気になったのはレンブさんに言われてからだった。メラルバを育てるなら、と。確かにレベルの高いポケモンがたくさんいて、メラルバが強くなってきたことを実感する。メラルバを見たときのレンブさんの悲しげな顔が思い出された。大人はいつ泣くのだろう。大きな手の握りこぶし。
「そろそろかなあ」
メラルバのツノから出る炎が、離れて立っているこちらにまで熱気を運んでくる。夏に炎タイプと一緒に居るのは身体的にしんどいけど、何かに急かされるみたいにメラルバと戦う。何かが始まるような、終わるような、かすかな予感と期待と恐怖。


秋、アデクさんが居なくなった。冬、メラルバと出会った。春、メラルバが傍にいてくれた。それから、夏。


突然、メラルバが炎に包まれた。メラルバが全身から炎を吹きだして、それが自身の姿を隠すように纏わりつく。アデクさんの髪、長く伸ばしっぱなしでその辺の枝なんかをたまに絡み付かせているオレンジ。それがちらりと視界をかすめたような気がした。叫ぶような、メラルバのメラルバとしての最後の声がする。圧倒的な炎熱が周辺の草を焼き、太陽を隠し、野生ポケモンたちは駆け足で逃げて行った。アデクさんも見たであろうこの進化の炎。踊るような美しい火と弾けては消える火花の中から、大きく成長した影が現れた。

「チェレン」

「・・・え」

聞き慣れた声、ここには僕とウルガモスしかいないのに。だけど聞き間違えようのない声が僕を呼ぶ。アデクさんの声が僕を呼ぶ。ウルガモスの炎が消えない。どうしたらいいのか判断ができなくて立ち尽くす。
炎の中だった。アデクさんの、きっと、まぼろし。アデクさんの影を真似したウルガモス、ねえ、キミなんだよね?
困惑して声が出ない。ウルガモス、たった一言呼ぶだけでいいのだ。それだけでこの意地悪な幻は終わるから。

「・・・アデクさん!」

心の中と違う名前が口を飛び出す。駄目だった。だって、アデクさんはここに。炎が風にゆらりと舞って、シルエットがひらりと翻った。アデクさんの笑った顔。あの日のままの。

「アデクさん!アデクさん!!」

一度呼んでしまったからにはなんどだって同じで、堰を切ったようにアデクさんを呼んだ。喉が破れてしまいそうなくらい。炎に焼かれてしまいそうなくらい。言葉が浮かばない。何と言えばアデクさんは帰ってきてくれるのだろう。誰も教えてくれない。自分で考えても分からないよ。
願いも虚しく炎が消えていく。草むらの炎もウルガモスに吸い込まれて小さくなって、そのまま、僕とウルガモスの二人きり。青白い瞳が優しく見つめてくる。
「・・・進化、したね」
僕より背が高くなったポケモンを撫でる。焼野原と化した道端に立ちすくむことしかできなくて、僕は星が出るまでそのままの格好でいた。ウルガモスが見せた幻は、これが最初で最後だった。




ウルガモスは強い。アデクさんから頂いたタマゴから生まれたということもあるけれど、育て方も間違っちゃいない筈だ。久しぶりにトウヤに戦いを挑みに行く、ということはしかししなかった。言い訳するわけではないが、チャンピオンにはアデクさんを正式なリーグ戦で倒してなりたいのだ。トウヤはチェレンらしいようならしくないような、と苦笑したし、ベルは絶対アデクさん帰ってくるよ、と言ってくれた。

ウルガモスの背中から、イッシュの地を見下ろしている。空を飛ぶ技を覚えたウルガモスの暖かい翅に包まれていると、秋の少し冷たい風もなんということはない。赤や橙に染まった木々からたまに強い風に乗って枯葉が舞い上がってくる。秋は深い。
僕は分からないままだ。アデクさんに会えない理由も、アデクさんをおいて流れるこの時間のことも、ウルガモスがメラルバに戻らない道理も、夏に見た幻の意味も。僕だけじゃなくてもしかすると誰も分からないのかもしれない。だから教えてもらえない。どこにも答えは落ちていない。大人になれば答えが無くたってそれはそういうものだ、と飲み込んでしまうのだろう。僕だってきっといつか、そう。
一年経った。アデクさんが居ないまま僕は一つ歳をとった。アデクさんと過ごしていた日々にはもう戻ることができないのだ。
レンブさんが言っていた。アデクさんに与えてもらった無償の愛のことを。誰にだって分け隔てなく接し、ポケモンのことを説いて回って。そんな彼の元で学べた時間は本当に有意義だった。楽しかった。アデクさんを心から尊敬していた。大好きだった。
僕は特別になりたかった。そうだったのだ、ずっと。アデクさんに認めてもらってアデクさんの傍に置いてもらって。レンブさんが羨ましかった。だけどレンブさんになりたいのではなくて、新しく、僕として、アデクさんの特別な存在に、なりたかったよ。
ウルガモスがそれを叶えてくれるのだろうか。叶えてくれたのだろうか。もうそれを知る機会はないけれど。ウルガモスにそっと頬を寄せる。誰にも聞こえない、誰にも届く宛のない声で囁いた。

「大好き、だったんだ」