埋もれゆく花




相棒だったゴウカザルを葬ってから半年が過ぎた。晩年の彼は白くなった体毛をブラシのように逆立てて、ドアの閉じる音にさえ怯えていた。以前彼がそうしてくれたようにわたしは彼を不安から必死に守ってやっていた。そのゴウカザルが、死んだ。実の子の独立の時にさえ感じなかった無気力を伴う淋しさ。当たり前だ、あのわたしのナイトはもういないのだ。わたしの友達は。
この半年間、わたしは自分が急激に老け込んでいくのを感じていた。それはもう恐ろしいスピードだった。花瓶の花が目を離した瞬間に枯れていた。ラムの若葉に水をやろうと腰を挙あげたら、もうそこには何もなかった。残された時間の短さを感じる。生活空間は若いころに買ったリゾートエリアの別荘のみになっていた。
ひとりきり。幼馴染だった旦那も5年前に旅立った。今頃ゴウカザルと再会してくれているかもしれない。
一人の時間に慣れない日々だったが、この頃昔の夢をよく見るようになり、淋しさは多少紛れる。
初恋の夢も度々あった。脳内で補完された面影はしかし現実感を伴っていた。まるで時間が戻ったかのように。何度夢に見てもわたしは彼の顔を思い出せないのだが、それでも胸の中に、瞼の裏に、喜びが熱をもっていた。
目を瞑ると現実と夢が混ぜこぜになる。わたしの白くなった髪はつややかな紺いろに戻っていた。張りのある肌と、瑞々しい手足。相棒はヒコザルだった。
ジュンの元気は若い頃からまったく変わらない。コウキは頼りなく笑っている。シロナさん、懐かしいシロナさんは強く美しく可憐だった。今まで出会った人の顔が次々とわたしに微笑みかける。あの頃。青春の輝きを惜しみなく振りまいていたあの頃。


「あなたの顔が思い出せないわ」
声に出してみるととても苦しい気持ちになった。何十年経ってしまっただろうか。老いは錆だった。体も、思い出も、ゆっくりと酸化してしまった。あんなに輝いていたというのに。
「どうしても思い出せないの」
私は恋をしていた。とても短い間だったけれど、相手にも誰かにも打ち明けることのなかった気持ちだけれど、大切なものだった。
夢を見ていた。あの人の傍にいることを。同じ場所で、同じ時間を共有することを。例えば毎日料理をつくってあげるだとか、それからポケモンバトルに明け暮れてみるだとか、きのみを一緒に育てたり、私のコンテストを応援してくれたり。
幼い夢の数々が、私の宝物だった。
彼が居なくなって約十年、幼馴染からプロポーズをされるまで、輝きを失わない宝石だった。

時間が経つというのはそういうことだ。あんなに大切だったというのに、そこにあなたが居なければ、そのまま時が過ぎてしまえば、錆びついてしまうのね。

「アカギさん、あなたがもしも時間を空間を支配して、今と違う未来がここにあったのならば」

面影がゆっくりと振り向く。私は子供だった。時間は果てしなくあると思っていた。

「そこには何も無いかもしれないけれど、私の苦しみもなかったのかしら」

私の砂時計が空っぽになろうとしている。老いていくことはとても怖かった。ゴウカザル、ジュン、シロナさん、アカギさん・・・あの時守られた筈の未来はそれでもいつか終わるものだ。本当にあの時私たちは、いえ、私は正しかったのかしら。素直な気持ちを打ち明けないまま過ごしてきた、今までの人生は正しかったのかしら。
夢の中の少女の姿、いつの間にか自分がその観測者になっていたことに気が付く。時間はもう戻らない。アカギさんの顔も声も思い出せない。名前が僅かな思い出とともに美しく私の心に住み着いていた。誰にも言えなかった秘密。人生の最後まで。
もし、あなたにもう一度会えたなら、私にとって何が正しいことなのでしょうか。






「どうしたの、おばあちゃん」

可愛い声が聞こえてふと気が付く。暖かい日差しとラムの花が香る優しい風の中で、私の意識は青い春の中にあった。

「おばあちゃんねぇ、少し夢を見ていたみたいよ」

木製の椅子からゆっくりと腰を上げる。ラムの花に水をやらなければ。だが私の歩みを阻んでにこりと笑う顔。

「僕がやるから、おばあちゃん座っていてよ。水をやれば良いんでしょう?」
「ええ・・・ええ。優しいわね、ありがとう」

なんとなしに髪を触る。水分を失った白い髪がそこにあった。夢をみていたみたいよ、素晴らしい夢、言い聞かせるように呟いた。
水やりをしてくれる孫息子に目をやる。夫は金髪、娘も。お婿さんは赤い髪だった。ナギサシティで生まれた孫息子。彼の髪は薄い青色。ちょうど私の髪色を薄めたような。夢の中の遠い面影、初恋の色にそういえば似ていると気が付く。

娘夫婦が住むナギサシティにはこの名前の植物がたくさん育っていて、その木のように真っ直ぐ健康に育って欲しい男児の名前によく付けられるそうだ。

「アカギさん、どうもありがとう。お茶にしましょう。部屋へお上がりなさいな」

私は、私はまだ夢を見ているのかもしれない。








title:花眠