※かっこわるい新開さんが居ます
※3つ目は10年後設定です










1.こぼれおちてゆく群青


 このレースが終わったら一緒に全てを終わりにして俺たちはもう二度と恋人には戻らない。
 そう言い出したのはどうしようもない、俺の方だった。 傷ついた顔をしてそれでも無理に笑って見せた泉田塔一郎という男は本当に強く、美しい、お前がいつか俺をそうやって憧れてくれたのと同じだった。 なぜあの時のままでいられなかったのだろう。なぜ無理をしてしまったのだろう。なぜ、愛していると言ってしまった、言わせてしまったのだろう。

 俺は冬が嫌いだ。寒さに耐えることが苦手だ。そして暖かいものを求めることは普通だ。その暖かいものが、体温が高い後輩の手だったのは偶然かつ必然、ともかく俺たちはあの冬に手を取り合った。 春になって雪が溶けてもお互いに恋を見出していたから、それじゃあきっとこれは本当の物なのだと信じていた。 恋は性欲ありきで成り立つものだと思っていた。それは違った。心から好きだった。だから、本当に、本物なのだと、信じていた。

 本当や本物が正しいとは限らないと気付いたのは、成り行きに任せたこの恋が終わりを迎えることの合図だったのか。 ともかく薄々気づきながらも見て見ぬ振りをして、しつこくも俺たちは許されるがままにお互いの衝動を感じ合う日々を続けた。 終わりが見えなかった。傷つけたくないから終わらせることが出来ない。しかしきっと続けることで傷は抉れて治らなくなってしまうだろう。 だけど塔一郎に決定的なひとことを言わせてはならない。

「こういう時に・・・なんて言ったらいいんだか、わかんねえ、悪い」
「いえ、ボクは、あの・・・幸せでした、幸せだったんです。だから、大丈夫です、大丈夫」

 我ながら最悪な言葉しか出てこない。誰だよ、塔一郎の前ではいつまでも格好良い先輩でありたいなんて言ったのは。本当に、誰だ。 小刻みに震えているこの手を取ることは、もう出来ない。愛おしく暖かいこの手を。最後のレースは終わってしまった。 力一杯走って、汗だくになって、悔いはもう無いと言えるまで絞り出した。最後のレースは、終わってしまった。
 卒業してもよろしくだとかまた来るよとか応援に行くぜとか、ありきたりでとても優しい言葉はもうここにあってはいけない。 戻ることは出来ない。間違えた道を引き返すことは出来ない。その足場はもう崩れ落ちて、無くなってしまった。 決別を選んだ瞬間に壊れてしまった。
 普通に、ただ普通にチームメイトとして過ごしていられたらどんなに良かっただろう、ただ純粋な信頼関係でもって接することが出来ていたら。 あり得ない幸せを望んでしまった代償は、全てを失うことで支払われた。

 最後のレースが、追い出しレースが、終わった。


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2.さよならヘヴン


 明確な切っ掛けも無く、始まりも無く、ただボクたちは不道徳な関係にあった。 しかし終わりだけはさっき確実にやって来た。人伝に知ったのだ。新開さんにガールフレンドが出来たと。
 ボクは動揺しながらしないフリをして、怒れるアンディと震えるフランクと、静かに深く悲しむファビアンを懸命に宥め込んだ。 だけどファビアンの悲しみは重く、ボクは釣られて頭を垂れる。

 恋愛そのものがボクにとっては小説や映画の世界の話だったのに、失恋ときた。あまりに突然過ぎて、これまでのことが全て夢だったような気さえしてきた。 初めてで唯一の好きな人、それが男だなんて、幼馴染の黒田雪成にさえ言っていないし、彼も想像すらしないことだろう。
 ボクと新開さんだけの秘密だった。だから夢だったのかもしれない。無かったことに出来るのだろう、こんなに簡単に。 ファビアンは新開さんに口付けされた。忘れることは無いだろう。ボクは貴方が好きだった、本当に大好きだった。忘れることは、無いだろう。

 天にも昇るような気持とはよく言ったもので、ボクは貴方に愛されると実感することで最上の幸せを手に入れていたのだった、羽のような幸せを。 それを失った今、ボクはただのボクに戻って、這うように地上を行き、新開さんの幸せを首が痛くなるほど見上げながら祈るのだろう。

 ひと言、電話でもして確かめれば良いのにそれをしないのは、確かめるまでもなく、ボク達の心が離れていることに気付いたからだった。 ボクの心と筋肉たちが告げていた。もう、遅いよ、と。


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3.どうしてだろう、貴方がむね


 悲しみが音楽のように店内に響いていた。 泉田は氷だけになったロックグラスを無意味に傾けて、からからと虚しい音を立てた。 その向かいで、新開が唇を濡らす程度のローペースでウイスキーを呷っていた。 所在無さ気に俯いたり遠くを見たりする二人の視線は時折かち合い、何かを言いかけて、止めて、そっとすれ違う。

 横浜駅西口改札を出てから少し歩いて地下に降り、木製のドアをくぐった先にある酒屋は、二人がローテーションしている店のひとつだった。 程よい広さと程よい喧騒。バーと居酒屋の中間のような雰囲気が気に入りで、いつも注文する定番の料理もあったが、とにかく、もうここに来ることは無いだろう。
 仕切りを挟んで隣のテーブルから、ライターの音がカチカチと鳴り、ゆらりと煙が立ち上る。
 なんとなくそれを眺めていると相手も同じものを見ていることに気付き、視線がやっと絡まり合い、少しだけ笑う。

「いろいろありましたね」
「あったな」

 会話らしい会話にならないまま、また沈黙が訪れる。思い出を反芻しながら呼吸をする。身体が宙に浮く。約10年の想いが5月の桜のように散り散りに舞っていく。 河津の桜はよく愛車に乗って見に出かけたものだった。高校時代からの恒例行事だったのだ。次の桜は誰と見に行くだろう。

 新開と泉田を出会わせたもの。自転車競技、箱根学園、スプリンターとしての選手生活。 二人を繋ぎ留めていたのもまた自転車、それから奇妙な恋愛感情。そして二人を壊すものは真っ当な人生のシナリオだった。
 学生時代は部活に励み、大学を卒業して就職し、数年働いて生きた者には次の筋書きが用意されている。結婚、という道。 それをパスしてゴールまでを踏破する為に、同性の恋人の存在は障害物であった。その障害を乗り越えた者には、奈落が待っている。 奈落で心中することを、ついに二人は選ばなかった。来週見合いをする新開と、その背中を押した泉田との、これが最後の、人生の寄り道という訳だった。
 部活動の先輩後輩だった頃、泉田は新開に背中を押されて強くなっていった。 その泉田が新開を普通の幸せを得られる道へ押し戻すために最後の背中を押した。最初で最後のことだろう。

 ろくに食べなかった。酒だけが身体に注がれていった。氷が解けきったグラスをとうとうカラにして、二人はゆっくりと立ち上がり、背広と鞄を取って店を後にした。


「雪でも降りそうですね」
「参ったなぁ、ただでさえ寒いのによ」

 泉田は口籠る。寒がりな新開の世話を焼くのは勿論泉田の役目だった。それも今日で終わりだ。 しかし今この瞬間はまだ自分に権利があるのではないかと一瞬だけ悩み、そんな訳無いかと諦めて黙った。

「さて、帰るか。また・・・」

 新開は笑いながら泉田に振り向き、すぐに表情を強張らせた。

「そんな顔しないでください。新開さん。また会えたらってボクは思います。そうですね、ハコガク時代の皆と一緒に、とか」
「ごめんな、気を遣わせちまった」
「いいえ」

 泉田は一生懸命笑った。それからさっき用意した言い訳を口にする。

「ボクまだ飲み足りないので、ここでお別れしましょう。それじゃあ、お気をつけて」
「・・・ああ、あんま飲み過ぎんなよ。塔一郎」

 ぷつりと赤い糸が切れて冬の横浜に散った。塔一郎、と呼ばれた名が泉田のこころに反響していた。
 寂しい背中が駅に向う雑踏に消えていく。厚手のコートとばかに長いマフラーを何重にも巻いた、寒がりな人の背中が。 あと30秒以内ならば間に合うかもしれなかった。寒さで丸まった背中を捕まえて、手袋越しに手を繋いで、何事も無かったかのように明日またおはようの電話を掛ける。 それが出来たかもしれなかった。



 結局、泉田は30秒経っても1分が過ぎても、そこに立ち尽くして見えない背中を追っていた。





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1.原作という道を踏み間違えた二人
2.自然消滅
3.真っ当な道に戻ろうとすると