福ちゃんと猫






 父から贈られた「福富」と刻まれたヒノキの表札の部屋に、今日も帰ってきた。大学入学を機にアパートでの一人暮らしを初めて早2年目になる。 駅から徒歩15分、大学の近くに建つ学生向け古アパートの1階は安値で借り出されていて、自分の力で生活していくのには絶好のスタート地点だった。 ゴキブリやゲジなんかがしょっちゅう出る部屋だったが、自分だけのテリトリーというのは思っていたよりも心地よいもので、大学生活にも張りが出た。
 朝起きて、大学で講義、自転車競技部で部活動、たまにアルバイト、休日はロードレース。大学時代は人生の夏休みだとよく言われるが、まさにその通りであった。 自分の責任で生活し、自分しか鍵を持っていない部屋へ、何時に帰ってもそこに自分の場所がある。時々人を呼ぶ。また誰かの部屋へ行く。 欲しいものが全てこの生活には揃っているという錯覚。ロードレーサーに乗ってペダルを回し続けてきたこれまでの学生時代は、そうすると春に相当するのだろうか。 人生におけるロードレースのシーズンはつまりまだまだ終わらないということだ。悪くない。

 そんな大学生活を守る自治区に我が物顔で領土侵犯をしてくる輩が現れたのは、つい2週間も前のことだった。 玄関と反対側には、庭と呼ぶ程のモノではないが、洗濯物を干すための面積が設けてある。1階の強みだった。
 そこに猫が来る。毎晩毎晩、猫が来るのだった。
 大学2回生は1限から講義が詰め込まれている。勿論放課後は部活動、アルバイトは週三回している。前述の通り休日はレースで遠征。だから猫と出会うのは決まって夜だった。 薄暗い闇の中、部屋から射す光度の低い蛍光灯で照らしきることのできない庭の上、その猫は俺が戯れに与えた夜食を食べて、食休みをすると満足して闇に消える。
 たったこれだけの付き合いではあったが、心地よいと思っている一人暮らし生活の中に少し寂しさはあったのかもしれない、猫の来襲を毎晩心待ちにするようになっていった。
 余り豊かではない名づけのレパートリーから、悩んだ末にその猫を名前で呼ぶことにした。 大昔に乗っていた自転車のメーカーから付けた名前だった。





 猫、と言えば、昔からの友人に荒北という男が居る。
 本人は実家で犬を飼っていて可愛がっていたと言う犬派を自称していたが、実際荒北は猫にも同じように愛情を振りまいていた。 愛情といっても分かり易いあからさまな類の愛情ではなかった。俺自身、言葉の少ない方だと自覚しているのであまり人の事は言えないが。 荒北のそれは言葉と裏腹に態度に出るような代物であった。

 例えば高校時代、校舎に痩せ細った野良猫が住み着いたことがあった。 その時は確か悪態を吐きながらも餌をやり続け、ブラッシングを施し、ふくよかにつややかになった猫を撫でながら、やはり悪態を吐いて笑ったものだった。 言葉には決して出さないが、可愛いだろう!とばかりに猫を見て、俺を見て、笑っていた。
 荒北のぶっきらぼうな愛情は、その身に受けるととても心地よいものだった。 一緒に活動していた高校の自転車競技部で、俺がエース、荒北がアシスト役を担い、共に数々のレースに出て幾つもの道を走っていた時期があった。 アシストはエースをゴールまで運ぶ。最高のポジションでゴールをエースに託す。 荒北が見せてくれたゴールの風景を、俺は一つ残らず覚えている。そしてその後の荒北の表情のひとつひとつも。 目を細くして笑うのだった、どうだ福チャン・今日もやってやったヨ、と。
 愛情と呼ぶにはおこがましかったかもしれない。あくまで部活動で、部員として互いに役割を果たすために尽力していただけと言われればそうだ。 それでも一緒に走る上での信頼や、日々の生活の中で、荒北のさり気無い優しさだとか気遣いだとか、笑った顔が、温かいものとして心のどこかに種の様に埋まっていた。 思い出は色褪せない。猫を、ビアンキと名付けた猫を撫ぜる度に、そういう言葉を思い出しては一人懐かしい気持ちに支配されるのだった。
 ビアンキと荒北は少し似ているようにも思えた。





 夏の夜は短い。が、どうせ帰りは早くても20時にはなる。だからあまり関係の無いことだった。 ビアンキがやって来てから1か月程経ち、暦は8月になっていた。 大学の夏休みは長いが、それだけに部活動や学外活動に時間を割くことになるので、アパートを空けている時間にそう大差は無かった。 今日まで県外へ合宿に出ていた。合宿の前には煮干しをいつもより山盛りにして、りんごを1つだけ置いて家を出た。 帰って来てそれらが無くなっているのを見て、少しだけ安心する。

 その次の日は、合宿明けで部活は無く、久しぶりになんの予定も無い日だった。ビアンキは昼間に来ているだろうかと部屋に一日籠って待つことにした。 結局猫は現れず、夕食を食べてさあ寝るかという頃にやっと現れた。 相変わらず俺に姿を見せてくれない奴だった。鳴きもしなかった。大人しく飯を食い、丸まって休んで撫でられて、そうして帰っていく。 自転車に油を差したり車体を拭いたり、そういった手入れの動作を何故かなんとなく連想し、ひとりでつい笑う。我ながら自転車馬鹿である。 高校時代の自転車馬鹿の仲間たちに、久しぶりに会いたいとふと思った。






「ビアンキ」

 自分の低い声は夜の中で溶けて消えた。勝手に呼び始めた名前に反応してくれるとは限らないとはいえ、そう呼ぶしかなかった。
 猫が、ビアンキが、来なくなった。2ヶ月間足繁く通ってくれた猫の影は、暗がりの中ではもう見つけられなかった。












 元々家の猫でもない。猫は気まぐれな生き物だという。 ビアンキは、久方ぶりに出会った荒北に抱きかかえられて再び我が家にやって来た。居なくなって一週間ばかりたったある日曜日だった。

 突然の訪問の前に荒北は一通メールだけを寄越した。今日福チャンち行くから、待ってて。簡素な文にピースサインの絵文字が付いていた。 朝の5時だった。レースが無い日で良かった。まるでこちらのスケジュールを把握しているかのような手際の良さに驚きながら、分かった、と返信をした。 昼の12時きっかりに、荒北はアパートの雑音交じりのチャイムを2回押した。そうして開口一番こう言った。


「ごめんねぇ、フクちゃん、ビアンキ、やっぱりもう駄目みてぇだわ」


 一瞬心臓がどきりと跳ねる。ビアンキ。その一瞬の次にやっと理解する。荒北のいうビアンキとは彼の乗るロードレーサーのことである。 猫のビアンキの話は誰にも、荒北にも言っていなかった。猫は荒北の腕の中でもぞもぞと動きながら、目を閉じて欠伸をした。見つかってしまったか、とでも言うようだった。
 つい黙ってしまった俺の顔を不思議そうに覗き込んで、言葉を続けた。

「ホラ、こないだ電話した件だヨ。フレームがもう寿命だ」
「そうか、もう8年・・・か?」
「フクちゃん中学の時も乗ってたんでしょ?・・・あぁ、そだネ、その位か」

 今荒北の顔を見るまでその電話の事をすっかり忘れていたことに気が付く。 電話。荒北が、ホラ7月位にしたでしょぉ?と眉を顰めて言う。 3ヶ月前、確か猫が家にやって来るようになった時期だ。なぜ忘れていたのだろうか、中学時代に俺が乗り、高校時代に荒北に譲り渡した大切な自転車の話だというのに。 まるで狐か何かに化かされたかのように、その記憶だけがごっそり抜けて、今、何もないところから突然現れたかのように思い出した。

「荒北、その猫は・・・」
「あー・・・居たんだよ。その辺に。うろうろしてたからつい・・・福チャン猫平気だっけ?」

 唐突な質問にも関わらず、照れたように後頭部を掻いて荒北は零した。 うちによく来ていた猫だと言いかけてやめた。今まで触れたことのある動物なんて、友人の飼っていたウサギくらいなものだから、なんとなく気恥ずかしかった。
 それにしてもビアンキを明るい昼間のうちにみるのは初めてだった。よく見ると毛並みが悪く、全体的にくたびれている。 猫の年齢換算はよく知らないが、長生きをした猫なのだろうか。

「ン、この猫、良い目してんな。ビアンキと一緒じゃねーの」
「む」

 促されて覗き込むと、確かにその目は薄い水色で、荒北の自転車と同じ色をしているようにも見えた。チェレステカラーというやつだ。 空の色だった。猫が空を見上げて、それをそのまま反射しているかのような。9月の空は丁度そんな色をしていた。 そういえば今日荒北が家まで来てくれるという話も、以前にメールでしたのだ、これも忘れていた、今思い出した。 猫のビアンキにかまけ過ぎて、自転車のビアンキを疎かにするようでは、次の大学対抗レースで荒北の所属する洋南大に食われてしまう。

「ぼろぼろな猫だねぇ」
「そうだな。もう老齢なのだろう」
「ビアンキももう随分くたびれちゃってヨ。何度も修理に出したんだけどね。昨日まで1週間くらい見てもらってたンだけど、やっぱどうしようもなかったわ」

 心の中で埋まっていた思い出が、ほろりとまた発熱する。荒北は自転車にも愛情深い。出来ることはきっと全てやり尽くしたのだろう。話を聞かずとも確信する。

「いや、荒北は大切に乗ってくれた。礼を言わせてくれ」
「や、イヤイヤイヤ、こっちこそだよォ、ホントにもー、照れるっつーの!まったく!あんがとね!ビアンキにも言っておくヨ!」

 大声で話す俺たちに驚いたのだろうか、猫は荒北の腕の中から器用にするりと抜けだし、アスファルトに着地した。 そうしてこれまで一度も聞かせてくれたことが無かった小さな声でニャアと鳴き、走り出し、水色の空の光りを受けながら、通りの向こうに消えて行った。