恋は白い花




 日々はあっという間に過ぎて行った。3年の先輩の追い出しレースが終わり、ボクが正式に主将を継いでから。 秋からの神奈川県内でのレースを箱根学園は総なめにし、シーズンオフになり、受験を控えた先輩達になかなか会えなくなり、年を越し、 もうすぐ冬休みが終わる。部活も今は自主練習期間としてある。とは言っても県内に住むほとんどの部員が室内の練習に励み、シーズン開けのレースの為にその牙を研いでいた。 しかしこの時期は雪が容赦なく積り、冬休みは休寮期間でもあるため、夕方ともなると人はほとんど居なくなる。
 今日はボクが最後の一人だった。ユキはおばあさんの家に帰省中だとかで、一緒に帰る人も居ない。雪掻きや掃除や整備を済ませてから帰ろうと決めた。 部室に3年の物はもうほとんどなくなった。荷物の少なくなった部室はなんとなく物悲しい。もう3ヶ月もすれば新入生が入ってくるけれど。
 ちらりとホワイトボードの予定表に目を遣る。シーズンに入ってからの各部員のレース出場予定が書いてある。 ボクはというと、シーズン1本目のレースには去年新開さんが出場し、優勝した学生対校を予定している。優勝しなくては意味がない。 追い出しレースで最速を受け継いだからには、優勝しなくては。気持ちは最高潮に昂ぶっていた。だからボクは冬休みだろうが雪の日だろうが、止まる訳にはいかない。

 箒と塵取りで簡単に掃除をして、床で丸まっていたジャージを畳んで(名前を見たら銅橋の物だった。あいつめ)伸びをして、BHの手入れにかかるため準備をしていると、 ごんごん、と部室のドアがノックされ、すぐに扉が開いた。冷たい風がするりと入ってくる。新開さんだった。

「わあ、新開さん!お久しぶりです。ノックなんてしなくてもいいのに」
「いやぁ、俺たち一応引退した身だからな」

 新開さんがぐるりと部室を見回す。片付いてるなぁ。ヒュウと口笛を吹く。それだけでボクは嬉しくなる。

「あれ、今日は1人か?」
「ええ。もう時間も遅いですし、この雪で電車が遅れたら大変なので、みんな帰しました」
「おめさんは大丈夫なのか?」
「はい。とりあえず小田原に出られれば問題ないので」

 新開さんはコートにマフラー、ニット帽と手袋で完全防寒していた。雪がところどころに積もっている。 タオルどうぞ、差し出すとマフラーに埋もれた口角がぱっと上がって、ありがとよ、と笑顔を向けられる。 釣られてボクも笑顔になってしまう。壁に掛かった鏡の自分と目が合う。情けないくらいに嬉しそうな顔をしていて、後輩にはとてもこんな顔は見せられないなぁと自嘲する。

「ていうかおめさん、寒くないのか?暖房入ってないみたいだけど」
「え、はい。ボク寒いの平気なんですよ。すみません、今暖房入れますから」
「いやぁ、悪いな。突然押しかけた上に我儘言って」
「いえ」

 新開さんがコートを脱ぐ気配を感じる。どうやらしばらく居てくれるみたいだ。でもどうしたのだろう。 忙しくないのなら、練習についてとか次のレースのこととかいろいろ聞きたい。だけどなんとなく聞き辛くて、こんな雪の日にどうしたんですか、と。ただただ沈黙が積もっていく。 部誌を読み始めた新開さんの傍で、ボクはBHの手入れを始めた。パーツの掃除をしていると、新開さんの視線を感じる。

「塔一郎のメンテは丁寧だな」

 秋くらいから、新開さんはボクを名前で呼ぶ。まだ照れくさくて、慣れなくて、顔が熱くなる。一拍置いてからありがとうございます、と絞り出す。 3年生はもう部室から自分のロードを引き上げている。

「サーヴェロ元気ですか」
「元気だよ。受験も終わったことだし、今度久々に走ろうかなと思っててよ」
「本当ですか、ご一緒したいです!」
「おいおい、主将が部活空けて俺なんかと練習しちゃ駄目だろ」

 前髪を掻きあげて困ったように笑う新開さんだった。反論するボクの声が少し大きくなる。

「オレなんか・だなんて言わないでください!ボクにとって新開さんは永遠に憧れの存在なんですから」
「大袈裟だな・・・でも、ありがとよ」

 新開さん、ボクは貴方に、本当に永遠憧れて、好きでいられる自信があります。心の中で呟く。 ではあなたは?ボクはあなたにずっと覚えていてもらえるボクであり続けることが出来るだろうか。もうすぐ新開さんたちは、卒業だ。
 そんなボクの心中と関係なく、ぽつりぽつりと会話が続く。ボクはネジを閉めながら。新開さんは部誌を読みながら。 練習の話もレースの話も受験の話も聞けた。新開さんは相変わらず優しく穏やかに話を聞いてくれる。的確にアドバイスをくれる。 ボクも誰かにとってこんな先輩でいられるだろうか。3年生の存在の大きさをより実感する。

 そんなゆるやかな時間を邪魔するように、突然、外でドサドサと激しい落下音がした。

「びっくりした、ちょっと見てきますね」

 ドアを開けて辺りを見回すと、なんてことはない、屋根の雪が落ちただけだった。ドアの前なんかじゃなくて良かったけど、そろそろ雪下ろしと雪掻きもしなくては。 丁度メンテナンスも終わったところだ。
 室内に戻って報告して、シャベルやなんかの道具を探していると、なんの前触れもなしに背中に暖かい熱が触れた。 新開さんに、後ろから抱きすくめられていたのだった。

 体温を頭に、背中に、脚に、全身に浴びて、筋肉が緊張する。どうしたら良いか分からない。


「新開、さん?」

 振り返ろうと首を動かすと抱きしめる腕の力が強くなって動けない。新開さんの頭はボクの肩で項垂れている。 余りに突然近くなった距離に動揺して、言い訳みたいな言葉が出てくる。

「あ、の・・・雪掻き、しなきゃいけない、です」
「あと少しだけ。悪いな、塔一郎」

 新開さんがボクの名前を呼ぶ声が耳をくすぐってぞくぞくする。冬だっていうのに熱くなる。どくどく、どくどく。心臓がポンプする。 どうしてボクは今抱きしめられているのだろう。憧れの、大好きな新開さんに、どうして。 夢なのかもしれないし冗談かもしれないし、だけどとても今は聞くことが出来ない。ただただ、体が、熱い。
 何秒経っただろう、1分は経っただろうか。新開さんが小さく声を絞り出すのが聞こえた。


「俺は不安なんだよ。分かるか。追い出しレースでオレを超えたおめさんが、俺を忘れちまうことが。卒業してそれきりになっちまうことが。ハコガクに居なくなるということが」
「忘れる、なんて、そんなことあるわけありません」

 返事をするみたいに、さらにぎゅうと抱きしめられる。少しだけ、その腕は震えている。

「こんなこと、他の誰かに言えるわけもねぇ。今日だって、学校に用事なんて無ぇのに、おめさんに会いたくて来たんだぜ。笑うだろ」

 零れ落ちる声がボクの肩に暖かく沁み渡っていく。


「塔一郎、おめさんがオレを見なくなることが俺にはいちばん怖い。男にこんなこと言われて気持ち悪ぃって思うかもしれねえがよ、塔一郎」


 耳元で優しく響く低い新開さんの声が、震えながらボクの名前を呼ぶ。僕はそれだけで幸せになれる。あなたがボクの名前を愛おしそうに呼んでくださる、それだけで、幸せなのに。



「塔一郎、お願いだからオレを」


「お願いだから好きになってくれ」



 新開さんの優しい掌はいつもボクの背中を押してくれた。追い出しレースのあの時、その手にボクは触れた。今、新開さんの体温が一杯に背中に。 心臓の鼓動さえも、緊張さえも、愛しささえも、ボクとあなたの間で全て伝わってしまうようなその距離感だった。
 ボクはずっと、新開さんが大好きだった。恋と呼ぶには不恰好な気持ちだった。歪なものだった。男の先輩に抱く気持ちじゃないって笑っていた。 憧れが変形してしまったようなボクの我儘かもしれなかった。それでもあなたが好きだった。

「お願いされなくても、ボクはずうっと新開さんが、大好きです」

 一瞬抱きしめる腕の力が緩んで、ボクは新開さんの方を振り向く。泣きそうな笑顔でボクを見て、そのまま今度は正面で抱きしめられた。 そっと、新開さんの柔らかな髪に触れる。指をすり抜けていく。ボクはおとなしく抱きすくめられる。
 最速を競うスプリンター2人が、静止したままの世界に浸る。





 雪下ろしと雪掻きは二人でやったからすぐに終わった。 格好悪いところ見せちまったからな、喜んで手伝うぜ。新開さんはそう言ったけれど、新開さんはどんな時でも格好良いですよと笑った。 でも、さっきの新開さんは、少しだけ、可愛らしかったと思う。そんなこと決して言わないけれど。 帰り支度を終えて、コートを着込んで、部室を施錠して雪道に出る。

「新開さんはものすごい防寒していますね」
「いやぁ、冬はニガテでな。寒いのが嫌なんだ」

 もうすっかり鼻の頭が赤くなっていた。新開さんの弱点が寒さだなんて、ボクにとっては補い甲斐がある。

「ボクで温まっていいですよ」
「ん?それはそういう意味で取っていいのか?」
「え、そういうって?そのまんまですよ」

 ぎゅっと手と手を繋ぐ。手袋に役を取られる前に、新開さんの掌を包み込んで温める。ごつごつした指の先にまで体温を与えたい。

「参ったねこれは。いや、こういうことの方がどきどきできるよ、実際」
「新開さん、さっきからそういうとかこういうってどういうことです」
「はは、今の早口言葉みたいだな」
「茶化さないでくださいよっ」

 銀世界となった箱根学園に、ボクと新開さんの足跡が刻まれていく。新しい雪に掻き消されても、春になって全てが融けてしまっても、ハコガクにボク一人が残っても、 この二人分の足跡がどこまでも続いて行けばな、とボクは恥ずかしい想像をしてまた熱くなってしまうのだった。