エノシマに死す




 待ち合わせ場所に早めに到着して、ボクは読みかけの本を読み終えることにしていた。 映画版を見ていいなと思い、図書室で探したら原作小説があったので、昨夜から読んでいたトオマス・マンだった。 美しいものに惹かれるという点で作品の主人公に共感しながら読んでいた。美しい人に。ボクにとっての美しい人とは、部活の先輩の事を指す。奇しくも、小説の主人公と美少年に同じく、ボクとその人も男で。 読んでいて不思議な気分に陥る。
 余韻をたっぷり残して読み終えた本を畳んで顔を上げると、隣に座る新開さんが膝で肘を付き、微笑んでボクを見ていた。 小説の残り8ページ程で到着した新開さんが、本を片付けようとするボクに読んでいていいよと言って待っていてくれたのだった。

「お待たせしました」
「いいよ。本を読んでるおめさん見てると、退屈しないからさ」
「どうしてです?」
「顔に出てるよ。眉が寄ったり、口元が笑ったり」






 新開さんと待ち合わせて海へ行く。神奈川側と静岡側と少し迷って、ボクらは県を越えずに、湘南方面へ行くことに決めた。 どっちへ行ってもインターハイで通った道を行くことになる。どうせならスタート地点へもう一回行って、観光なり海水浴なりしてみようと思ったのだ。 新開さんは自宅から、ボクは寮から。待ち合わせは二宮駅。国道一号線上へ再び車輪を落とした。 つい2週間前、インターハイで激闘を繰り広げたばかりのその道へ。

 空は突き抜ける程に青く、海は白い光を反射して眩しい。インターハイが終わってしまっても、季節はまだ精一杯に夏の盛りだった。 箱根学園自転車競技部は新体制を築き始めている。三年の先輩を置いて、時間は毎日進んでいる。ボクはまた来年のゴールに向けて走り出している。
 そして、そこにもう新開さんは居ない。

 学校を出発して1時間弱、国府津を過ぎて、ボクは景色をぐるりと眺める。IH1日目のスプリントリザルトラインが近付いていた。といっても今はレースを逆走している状態だけれど。 思わずペダルを踏む脚に力が入る。涙で滲んでいたあの時の景色。 季節の眩しさに焼かれてしまいそうだった。なんとなく心がざわついている。 時が過ぎていくのはどうしようもならない事なのに、歯がゆくて、夏は永遠ではないのに、ちゃんと納得しているのに、心が、ざわついている。 これが寂しいという気持ちなのだろう。心の奥底からの、素直な。どう足掻いても、新開さんとハコガクジャージを着て一緒に走る夏はもう来ない。
 灼熱の中を走り抜け、二宮駅に到着したらすぐに自販機で飲み物を買って、駅近くの木陰のある公園へ向かった。 自転車を柵の所で停めながら、汗が次から次へと滴り落ちてくる。まだ朝だというのになんて暑さだろう。ベンチに腰を下ろして、少ない荷物のカバンから薄い文庫本を取り出した。






 再び国道に乗って走り出す。ボクが前。インターハイの逆走がまた始まった。 道が広くなると新開さんがスッと隣に来てくれる。暑いな、とかそろそろ前代わろうか、とか。 その度にボクは胸が一杯になって、どんなに暑かろうと元気が出るし、いくら風が吹こうとなんてことは無いと思えるのだった。

「大磯だな。ここは今頃の時期の朝早くに、緑色の鳩が出るんだぜ」
「へぇ。見に来たんですか?」
「小学生ン時、課外授業で来たんだ。起きるの大変だったなぁ。あっ、丁度この辺の海岸だ」

 夏休みだからだろう、海岸には人で溢れかえっていた。楽しそうな横顔の明るさに、小学生の新開さんまでもうっかり妄想してしまって思わずボクの顔も緩んでしまう。

「海、きれいですね」

 と誤魔化すと、新開さんがニっと笑ってそうだなと言ってくれる。

「さっき、初日のスプリントリザルトラインを通りました」
「ああ・・・そうか、二宮の辺りだ」
「ハイ。何も書かれてなくても、誰ひとりそこに居なくても、例え辺りがまっさらになって道だけになったとしても、ボクはあの場所を一生忘れないし、すぐに分かってしまいます」

 子供たちが海で遊ぶ歓声が遠く千切れる。車輪の音と風の音。車が横をびゅんびゅんと通り過ぎる。 新開さんと二人きりでこの道を走っていることは、まるで現実じゃないみたいだった。夢みたいだ。車輪の音。二人分。

「そうかぁ・・・そうだよなぁ。泉田、それでいいんだよ。だけど気持ちはそこに置いて行くなよ」
「気持ちです、か」
「悔しさに囚われ続けるなよ、ってとこかな。結果は結果だ。おめさんまだハコガクを背負って走っていくんだろ?」
「・・・はい、新開さん」

 新開さんがポケットからパワーバーを取り出す。

「まぁ、今日はサイクリングだ。そんな厳しい顔するな、泉田。・・・食うか?」
「頂きます。ありがとうございます」


 海沿いの平坦な道は風がびゅうびゅう吹き抜けて気持ちがいい。相模川を越えたあたりから新開さんが引いてくれていた。 新開さんの背中を追いかけ続けて、憧れて、色々な事を教わって、同じ舞台を走ることが出来て、勿体ないくらい傍に居ることが出来たのに、それでもボクはこの人をもっと求めている。 もっとずっと新開さんと一緒に居たい。貴方を超えたい。だけどずっと前に居て欲しい。でも新開さんに箱根学園を任せられるスプリンターだと安心してもらいたい。 いっそのこと、今、逆走している国道一号線、時間が一緒に戻ってくれたらどんなにか楽だろう。でもそれは逃げの気持ちだ。 どうして時間は戻らないのだろう。全力を出し切ってきた今までの時間を否定するわけでは決して無い。ただ、新開さんと離れることが嫌なだけなのかもしれない。本当は。新開さんの美しい背筋ラインを、ごつごつした肩甲骨を見る。

 さっき読了した小説のフレーズが頭の中で流れていく。主人公の老いた男が美少年へ心の中で投げかけた言葉、わたしはお前を愛している―――

 愛とはなんなのだろうか。ボクのような只の後輩が、格好良くて美しくて女性に人気の新開さんに抱いて良いものではない筈だ。それだけは確かだ。 愛とは。それがあれば、新開さんと全てを共有出来るのだろうか。例えば、裸の背筋に触れてしまうことさえも。 只の後輩、の限界はどこだろう。『ボクはあなたを愛している。』




 昼下がり、新開さんとボクは江ノ島海岸に到着した。砂浜は人で溢れかえっていて、海は濁っていて、騒がしくて、だけど不思議と懐かしくて愛おしい気持ちになった。

「なんというか、入ったらもっと暑くなっちまいそうな海だな」
「確かにそうですね・・・とりあえずカキ氷でも」
「ああ、それはいいな」

 イチゴとブルーハワイを買って、商店街の坂の手前の開けたところで休憩をした。 海に入ろうという気持ちはなんとなく萎えてしまって、大磯のプールにでも入っておけば良かったと笑いあった。
 時間は戻らなかった。インターハイの道のりを逆走しても。 ほんの二週間前にレースがあったことを信じられないくらい、江ノ島は海水浴客と観光客でごったがえして日常を取り戻していた。 気持ちはそこに置いて行くなよ。新開さんにさっき言われた言葉をふいに思い出す。 インターハイのスタートを切った江ノ島は、もうここには無かった。

「まぁ、とりあえず歩いてみるか?」
「ですね」

 輪行袋を広げながらカキ氷のスプーンを咥えているのがなんとなく似合っていて見とれていると、新開さんが気付いて笑う。

「何見てんだよ」
「いえ、スミマセン。カキ氷の色、舌に付いちゃいますよ」
「おめさんのブルーハワイの方が付きやすいだろ。どれ、見せてみな」

 顔が近づいてきて、なんとも単純に、ボクの心臓はどきどきと鳴りはじめた。舌をそっと出すと、新開さんがボクの顎をくいと持ち上げて、まじまじとそこを眺めてくる。

「はは、真っ青だ泉田」
「ア、アブゥ」

 新開さんはボクで遊んでいるのだろうか、それともボクのもやもやした不純な気持ちを分かっていて戒めるためにこんなことをするのだろうか。 いずれにせよ、ボクは白旗を上げるしかない。




 観光をしてご飯を食べて、あっという間に夕方だった。夏で日が落ちるのが遅いとはいえ、早めに帰るに越したことはない。 麓からは登山鉄道で帰ろうかな。明日も練習がある。
 人も疎らになってきた砂浜で、足首だけを海水に曝しながら新開さんとぼおっと立つ。 寄せては返す波の音を聴いていると、焦ったり悩んだりしていた気持ちがなんとなく柔らかくなっていく。 だけど、このままこの時間がずっと続いてくれたらな、と新しい我儘が産まれてしまって、どうしてこうボクは新開さんのこととなると際限なく欲求が湧きあがってしまうのだろうと自嘲する。

 ボクの憧れは、ボクの愛は、いつか誰かが新開さんに向ける恋慕に勝つことが出来るほどのものなのだろうか。 例えば新開さんがこれから出会うであろう聡明な、または可憐な、若しくは寛容な女性たちだとかの。 ボクと新開さんが一緒に居る江ノ島の風景は、あと数分もしたら永遠に失われてしまうものかもしれない。

「泉田、なに寂しい顔してるんだ」
「・・・なんで、寂しいと」
「おめさん結構顔に出るんだよ。さっき本読んでる時も言ったろ。まぁ、俺が泉田を観察しすぎてるのかもしれねえが」
「ボクが新開さんの引退を、卒業を、寂しがらないわけがないです」
「ありがとよ。そう言ってもらうのは先輩冥利に尽きるな」

 波が寄せて、ボクの心がさらわれて、海へと流されていく。 新開さんの大きな掌がすぐそこにあって、握ってもらいたくて、だけど何も言えなくて、ボクの心は海へと流されていく。 と、思っていたのに、その新開さんの大きな掌が、がしっとボクの左手を固く握っていた。ボクの心が見えているかのように突然、だけど優しく暖かく。
 新開さんは何も言わなかった。ボクも、何も言えなかった。 海岸はまだ暑かった。まだ人が居た。もう遅い。もう離れられない。