藍の目




 中学二年の時、僕は隣駅の塾に通っていた。 わざわざ学区の違う所へ通うのは、まだ中二なのに塾へ通うことが、部活動に明け暮れる周りの奴らと比べて地味で恥ずかしかったという、それだけの理由だったと記憶している。 親はとりあえず勉強してくれればいいと常々言っていた。どこへ行こうが勉強しさえすればと。
 件の塾は隣駅の名前の中学生ばかりで、仲良く喋りながら過ごす彼らの中で、僕は背中を丸めて本を読んでいた。あの頃何を読んでいたのかてんで覚えていない。 下らないポーズの為に進学塾でもないのに電車に揺られて塾に通っていた二年間を、今は勿体なかったし馬鹿馬鹿しかったと回想する。

 ところがその馬鹿馬鹿しいことをしてる人が同じ中学にもう一人居たのだった。
 1つ学年が上だからクラスは違うけど、テストの結果を貼り出す掲示に、自分と同じ中学に通う先輩の名前を見つけた。藍原という人だった。なんとなくその名前を覚えていた。 物好きだなと思いながら。夏前くらいに講師が男子生徒に藍原、と声を掛けるところを目撃して、その時藍原さんの姿を初めて見た。確かに僕と同じ制服を着ていた。 髪がさらさらしていて、顔は整っていて、無表情な人だった。テスト結果の掲示で常に上の方に名前があった。勉強が出来そうな、真面目な顔だと思ったような気がする。
 藍原さんを中学校内で見掛けることは少なかった。少なかったけれど無いわけじゃあなかった。いつも一人でいたと思う。 僕にも友達が少なかったし、同じ塾に行ってることもあるし、一方的に見掛ける度に藍原さんをなんとなく見ていた。 藍原さんが女子だったら良かったのに、と一瞬考えて、だけど男だろうが女だろうが、僕がよく知らない人にいきなり話し掛けるのは不可能だなと思い直したものだった。 あとは卒業式の日に壇上に上がって、証書を受け取って席につく、その十数秒位しか、中学時代の藍原さんに関する記憶は残っていない。

 中学3年になる直前の春休み、少し早めに僕は高校受験に向けて準備に取り掛かった。志望校はなんとなく一番近い公立校に決めていた。 離れた塾へ通うなんて面倒なことをする割に、大事な決断に対して僕は淡白だった。特にやりたいことはない。続けたいスポーツは無い。好きな科目があるでも無い。 少しだけ美術が好きだったけど、本気で絵を描いたり工作したりはいつもしなかった。見られたら嫌だったから。つくづく中学時代は間抜けな時代だ。 なんとなくの志望だけど、受験勉強で手抜きはしなかった。趣味らしい趣味がないから勉強に打ち込めた。

 夏休みもなかば、そんなときだった。塾の講師に志望校のランクをあげないかと聞かれたのは。確かにテストの順位は上がってきた。 一年通って友達は出来なかったから、集中して勉強ばかりしていた。去年初めて合格実績が出たらしい、少しランクの高い高校の資料を渡された。 面談中、講師が机に置いた資料の中に、その去年合格したという先輩の名前が見えてあっと声が出そうになった。藍原さんだった。

 彼が決定打になったわけではないけど、話に流されるように結局僕はそこへの受験を決めた。藍原さんのいつみても無表情な顔を思い出す。 少し忘れている。声すらそういえば聞いたこと無い人だもの。当たり前といえば当たり前だ。
 部活に燃える夏もなく、文化祭に盛り上る秋もなく、僕は受験勉強一色のまっさらな冬を過ごして結果、藍原さんと同じ高校に合格した。 講師と親と担任が喜んでくれるのが、どうしてか他人事に思えた。今、藍原さんが一番身近な人だと、図々しくも思っていた。何事もなく卒業して春、僕は高校生になった。


 高校生になっても何かが強烈に変わったということは無く、淡々と中学の延長を行っていた。 パソコンのタイピングができるようになりたくてコンピューター部に入ったけど、たまの活動日にふらりと行って、周りの雑談に適当に相づちを打って、 いつしかタイピングソフトでなんとなく時間を潰すだけになっていた。
 藍原さんを見掛けることはなかった。中学より全校生徒の数は多いし、もしかすると別人のようにイメージチェンジしてるかもしれなかったからだ。 …と想像したこともあったけど、結局藍原さんはそのまま縦に長くなっただけで何も変わってなかった。 秋の学祭で、久しぶりに見た姿。まさか声を掛けることもできず、藍原さんのクラスで売っていたチュロスとかいうお菓子を50円で買って、それだけ。 彼が着ていたネズミのキャラクターのパチモンみたいな絵が描かれた、変なクラスTシャツが妙に似合っていて、楽しくなかった学祭が少し面白いものに感じられた。 どうして知り合いでもなんでもない藍原さんが、こうしてたまに勇気付けてくれるのか、僕にはこのときまだ分からなかった。 しかも話してすらいないのに。なんだかストーカーしているみたいで申し訳ない気持ちになった。何もしていないし、何も悪いことはないのに、後ろめたかった。

 僕が高2になる頃には、このストーカー未満の症状は悪化しつつあった。藍という字を見るといちいちどきりしていた。
 選択美術の授業で藍色の絵の具を見たときなんて、感動さえした。課題の写真模写の絵に、少し迷って藍色を使ったときは、自分の気持ち悪さに少し驚いた。


 タイピングのスピードが早くなってきた、冬・藍色の作品が廊下に貼られた、冬休み明け。藍原さんとの別れの季節が再びやって来た。 今度こそ彼の姿を見ることはもうなくなるだろう。今や彼の通う予備校なんて、志望校なんて、知るはずもない。 一年違う年のせいで、僕はいつまでも臆病で声も掛けれないし、こうやって背中を見送ることしかできない。言い訳に過ぎないけれど、僕はそういう人間だった、いつも。

 卒業式の在校生席で、僕は通路側の端の席になった。入場で藍原さんが隣を横切ったとき、ぶるっと僕は震えた。 くすぐったくて気持ちいい、不思議な感覚だった。心臓がどきどき鳴り始めた。

  中学2年、隣駅の塾へ通う同じ中学校の生徒は僕と藍原さんだけ。僕と似た考えの人かなと少し親近感がわいた。
  中学3年、なんとなく勉強していただけの僕に、間接的に目標をくれた。
  高校1年、同じ高校に藍原さんがいるというだけで、ここが面白い 場所に感じられた。
  高校2年、藍色の絵の具を通して、世界がきれいな色に見えた。
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 こうしてタイピングでかちゃかちゃ書き起こしていると、思い出は些細であっという間に過ぎて行くものだと感じる。 ブラインドタッチができるようになって、真っ直ぐモニターを見ると背筋が自然と伸びた。 なんでもない人生でも、真っ直ぐ見てみればきれいな世界の中にあって、特別なものに見えるのかも。
 あの日、卒業生退場で、遠くから歩いてくる藍原さんをまじまじ見詰めてしまった。さらさらとした髪、整った顔立ちは無表情で、歩いてくる。 僕まで1メートルのところで、ふと目が合った。初めて結ばれた目線は一秒もすれば外れてしまった。瞬間、その瞳の中に、僕は何故か藍色を見た。 それだけで、その幻じみた瞬間を得ただけで僕は、もう何もかもが大丈夫という気がしてしまった。
 彼を乞い思う事はこれから先きっとないだろう。しかし藍の色は薄れていくかもしれないけど、僕が生きていく中で色彩を失わない限り、心に焼き付き続けるだろう。
 話したことすらない彼を思って強くなれた気になっていたなんて、 いつか大人になって振り替えれば(中学時代の僕を今の僕が馬鹿にするように)大人の僕は笑い捨ててしまうかもしれない。 でも確かに彼の瞳の色は、青春時代にだけ、あの瞬間にだけ見ることができる魔法みたいな光だったのかもしれないと、どうしてか思えるのだった。