早朝、食事と身支度を手早く済ませ、僕は家を飛び出した。これで最後だから。これで、最後にするから。誰に言い訳しているのか、祈っているのか、不確かなままに頭の中で言葉を紡ぐ。
 川を大きく跨ぐ橋。河川敷のサッカー場を見下ろせる。「位置について・・・」呟く。頭の中でパンと鳴る。走る。




 橋の向こう側では強い東風が吹き荒れていた。巻き上がる砂ぼこり。轟音。ごみが入ったからぎゅっと目を閉じた。サッカーボールが弾む音。ゆっくりと目を開けた。
 強風に阻まれて、グラウンドからの声は切れ切れに届く程度。河川敷を見下ろして、必死に探す。居ないことを祈りながら、探す。1,2,3,4人・・・5人。 サッカーボールを追いかける雷門中ユニフォームの中から、やがて僕は風丸さんの姿を見つけた。すうっと身体が冷たくなっていく気がする。こういうのを血の気が失せるというのかもしれない。
 僕はいつでも目一杯の感情のまま生きてきたから、こんな風に、叶わない望みを抱えることになるなんて、ショックを受けるだなんて・・・耐えていることが難しい。 吹き荒れる風の中、ぎゅっと欄干を握り締めて固く目を閉じた。風丸さんの声を探した。遠く微かな声たちの中から、風丸さんの声だけを聞き取りたかった。


 数分間をそうしてやり過ごし、ようやく目を開けてみた。帰ろう。橋のこちらから、あちらへ。埃っぽい空気で深呼吸をする。よし、と顔を上げると、向こうの方から誰かが走ってくるのが見えた。 視界が悪くてよく見えない。仕方ないからその人が通り過ぎてから出発することにしよう。と、待ってみると、果たして向かってくる人物とは僕自身だった。
 凍り付いた世界で、鏡を見つめるようにその驚いた顔を凝視する。お互いが同時にゆっくりと口を開く。錆び付いた喉を潤したくて発声を躊躇する。 こちらの世界の宮坂了が雷門中の指定ジャージに包まれた右脚をおずおずと僕に向けて一歩、すると砂塵と暴風に撒かれるかのように、相手の身体が目の前から消えてなくなった。消えて、居なくなった。




「・・・ただいま」

 脚が重くて、心がざわざわと痒くて、心臓がばくばく暴れ続けて、息をするのも緊張する、心も身体も絶対に限界を迎えている筈なのに、必死になって帰宅した。
 家の位置は変わっていなかった。僕の世界とこの世界で。この世界の、僕。死んで、しまったのだろうか。最後の挑戦なんてするべきではなかった。怖くて堪らなかった。
この靴とそれに纏わる現象にはコーチも先輩も誰もいない。誰も助けてくれない。せめて風丸さんに会えたら。会えたら――

「了!手は洗ったの?早く入っていらっしゃい」

 母さんの声がした。シューズをそっと脱ぐ。勝手知ったる僕の家。だけど僕は異物。誰かそれに気が付くだろうか。どうしたってホンモノはもう居ないけど。
 どうしよう。どうしよう。彼の代わりに夕食とお風呂と歯磨きを済ませる。どうしよう。どうしよう。彼のベッドに潜り込む。枕元には風丸さんの写真を収めた写真立て。 どこに行っても僕が風丸さんのことを大好きだということだけはブレないんだ。なんだか泣けてきて、ごめんなさい、言葉が勝手に滑り落ちて、彼のことや風丸さんのこと、元の世界のことを考えながら、そっと意識を手放した。