ドラマチックガール




とうに日は暮れ、蛍光灯が暗闇を奇妙に切り取る部屋の中。木野秋は体を一瞬痙攣させてから、もぞもぞと眠りから醒める。
(クッキーでも焼こうと思っていたのに、折角の午後が台無しね)
冴えない頭を枕から持ち上げると、金平糖が空を飛んでいた。青色の一粒をそっと摘まんで口に落とすと、甘い香りが溶け出す。
今夜は両親が出かけているから、夕飯の支度も食事も一人でしなくてはならない。頬を叩いて眠気を追い出し、秋がベットから降りようとするとスリッパが足元に滑り込んでくる。そこに着地してそのまま階段を飛び越えて、1階のリビングへ向かった。
明日も朝練。早くご飯を食べて、お風呂に入って、宿題やって寝なくっちゃ。小さな声で呟く。ニンジンが星やハートの形になるのを横目で見ながら、キャベツの千切りで山を作った。

本当に些細な日常の所作に、いつしか"不思議"を起こすことができるようになっていた。超能力や魔法といった大層なものではない。秋が自覚したのはつい最近のことだった。
なんでもかんでも手間を掛けずに成すのは性分に合わなかったが、なんだかんだで指先一つの不思議に甘えることが増えていた。
漫画の世界のようで愉快ではあったが、例えば少年漫画のように誰かと戦ったりなどしないし、少女漫画のように恋の呪文があるわけでもない。秋の日常にゆっくりとけていった金平糖みたいな魔法は、密やかなものとして生きていた。

「ごちそうさまでした」

力をいれずともきれいに落ちていく食器の汚れたち。それを横目に着々と早く寝るための仕事を済ませていった。



布団に入れば勝手に朝がやってくる。ベットが垂直になって秋を床に落とす。渋々と目を覚ます。
早起きは元来得意なのだが、無意識の早く起きなくてはという気持ちが作用しているのか、ベットが勝手に起こしにかかってくるのだった。
昨夜出かけていた両親はいつのまにかいつも通りに朝の支度を整えて秋を待っていた。ベーコン・エッグを咀嚼、消化、誰かに見られていると魔法はうまく使えない。使うつもりもない。

だからもちろん箒で空を飛んで学校に行くことなんてない。ローファーのつま先を石畳でこつ、こつと叩くと、行ってきます。扉を開けた。
初春の風は沈丁花のブーケだった。サッカー日和だね、と心の中で呟いた。今日も朝練の日だ。

「おはよう、秋!」

ふいに後ろから声を掛けられて、振り向くとサッカー部の円堂が居た。心臓がぴくりと跳ねる。

「おはよう、円堂くん。朝会うなんて珍しいね」
「秋がいつも早すぎるだけだろ」

困ったように笑う。今日は風丸とどっちが早く着くか競走なんだ、と。

「そーいうわけだから先に行くな!」

男の子っておもしろいなぁ、なんてことを思いながら、どうせまだ時間に余裕がある、とゆっくり道を行く。ただ円堂と風丸が早く来るのならば、サポートする立場としては多少焦らなくてはいけない。テンポを速めると少しだけ風を感じた。
恋していると思うのだけれど、それを告げることは決して無いの。秋は心にそう決めていた。恋愛に消極的な性分だということもあるけれど、自分の気持ちを円堂に告げることで部内に与えるであろう影響はよくない結果を生むと思ってのことだった。マネージャーとして、彼らにはサッカーに専念して欲しい。秋はそう考えていた。親友にその話をしたときは、なんて頑固なの!と驚かれてしまった。



「あれ、木野?」

今朝はよく声を掛けられるなぁ、と秋が振り返ると、水色の髪をポニーテールで束ねた彼が居た。

「おはよう、風丸くん。さっき円堂くんにも会ったよ」
「本当か?もう学校着いちゃったかな」
「競走してるんだってね。走れば間に合うんじゃないかな」

風丸君の脚なら。秋がそう付け加えると風丸は顎に手を当ててうーん・・・と唸った。秋の隣、車道側に同じペースで歩きながら。

「いや、今日はおとなしく負けてやることにするよ」

ふ、と笑う顔に一瞬どきりとする。端正な顔立ちが笑うと一層美しく見える。きらきらきら、星が散って輝くのを風丸の背後に見たが、消えろ消えろと慌てて心の中で叫ぶと霧散した。


「そういえば風丸君とこうして歩くの、初めてじゃないかな」
「え?そうだったっけ」

通学路をなぞり、丁度河川敷を通りかかる。そのグラウンドに一瞬雷門のみんなを幻視する、それくらい通っている場所だった。それなのに風丸と一緒に歩いたことがないなんて、しかも彼は覚えていないなんて、秋にとってなんだか面白い話だった。

「うん。いつもみんなで行動してるし、私帰りは音無さんとが多いから」
「そうかもな。毎日同じ場所に居てもあまり喋らなかったかも」

それに気付くと途端に何を話したらいいのかわからなくなる。そういうとき話題はいつも円堂のことになるのだった。今朝の競走の発端について聞いていると、本当に彼らは仲が良いということがよく分かった。
学校に着いて、風丸が傍をすっと離れて円堂のところに行く。何故だかその時言いようのない寂しさみたいな感情に襲われて、ふっと気が抜けてしまった。遅いぞ!ごめんごめん。そういう二人のやり取りを聞いていると、涙が出る代わりに空から小雨が降り始めた。
なんだよー!と困った顔をする円堂に心の中でごめんね、と言いながらも、その雨を止ませることはできず、朝練は結局室内トレーニングになってしまった。



時間が経って朝のことを何とも思わなくなると、天候は早朝と同じ穏やかな晴れになった。これなら午後の部活はグラウンドでできるだろう。
秋は鉛筆がひとりでにしょりしょりと先端を磨き上げているのを見て、慌てて筆箱を閉じる。予感があった。心臓がどきどきする。朝から続く何かへの緊張だった。

「よし、今日はポジション別に練習だ!来週の試合に向けて連携を高めていけよ!」
円堂の声に、はい!と返答の声が湧く。
「木野」
「なぁに?」
ドリンクサーバーを地面から台へ持ち上げていた秋に、誰かが声を掛けた。振り返らずにとりあえずの返事をする。
「ゼッケン出してもらえるか?」
「え、ああ風丸くんね。何枚いるの?」
「3枚・・・うん、別に何色でもいいよ。ありがとう」

カゴからゼッケンを出し、手渡す時に指がナイロン越しに触れた。受け取ってからもう一度ありがとう、と言うと、風丸はディフェンダー陣の方へ駆けていった。

先の尖った鉛筆を思い出す。あんなに張りつめた気持ちで居なくてはならないような、変わったことなんて何もないわ。秋が心中で溜息を吐いたとき、危ない!という怒鳴り声が聞こえた。声が聞こえたのと同時に、サッカーボールが秋の横すれすれを滑空した。直撃しそうになったボールが独りでに避けたのだった。

「木野!木野、大丈夫か!」

水色のポニーテールが風に踊って光っている。また風丸だった。今日はどうしてかあなたとよく話す。ドラマみたいに小説みたいに新しいことが次々と起こる。

「よく避けられたな・・・じゃなくて、ごめん!今蹴ったの俺なんだ。本当に当たってないよな?」
「びっくりしたけど、大丈夫だよ。当たってないから」
「そっか、良かった。本当にごめんな」

くるりとターン、ボールを蹴りながらグラウンドへ駆けていく、そのポニーテール、その後ろ姿。思わず彼女はそれを目で追い続けた。



練習が(無事に)終わった。秋は慣れた手つきで片付けを済ませ、校内の女子更衣室へ向かった。男子は部室で着替えることができるが、マネージャーは体育の時間に使う校舎の更衣室へわざわざ移動しなければならない。

「それじゃあ、お先に失礼しますね。どうもありがとうございました」
「いいのよ。じゃあね、お疲れ様」

買い物があるという後輩の音無を先に上げたために、丁度更衣室で入れ違いになった。一人だと楽が出来る。脱いだジャージは独りでに畳まれるからだ。
いい加減この不思議な力がどうして働くのか原因を知りたい。それから今日風丸君とよく話したのは一体なぜだろう。考え事が秋の頭の中に散らかるけれど、問題は一人で解決しなくてはならなかった。
・・・ふと、左手の指の痛みに気が付く。薬指だった。秋がそこをなんとなしに撫でると、刺繍糸のような赤いラインが現れた。布と布を縫うように、空気と空気を裂いていった。

「な、に?」

小さく声を漏らすと、それを合図としたかのように糸がどこかへ向けて引かれる。薬指に絡まった赤い糸が秋を急かした。カバンを急いで引っ手繰る。待って、待って!と心の中で念じてみても、それは無駄な抵抗に終わった。
赤い糸が廊下を走る。教室を出て階段を下りるまでに、何人かが何かに引っ張られるように廊下を駆ける秋を見た。階段はゼリーのように柔らかくて、秋が転んでも彼女を弾ませた。
下駄箱を過ぎるとサッカー部の面々が着替えを終えて帰ろうとしているところだった。その横を走り抜ける。校門のところで音無に追いついた。

「あれっ!木野せんぱーい!」
「ごめんね、音無さん、なんか急いでるみたいで!」
「ええっ?」

気持ちが急いて意味の分からない返答になる。明日お詫びしなくては、と秋が決めたところの30メートル程先に円堂と風丸の後姿が見えた。赤い糸はそこまで真っ直ぐに伸びていた。

分かったわ。呟く。分かった。運命の人、なんてドラマの中でしか出会えない筈だと思っていたの。だけど、どういうわけか私が不思議なことを起こせるようになったのは、あなたとあんなに話ができた偶然は、きっと今日の・・・たった今のためだったのかもしれない。

二人の背中に追いつく。掠れた声で名前を呼んでみると、二人が同時に振り返った。円堂の指先に糸は繋がっていなかった。円堂の右隣を歩いていた、風丸の左腕、左の掌、指、薬指。そこに刺繍糸のような赤いラインが結ばれていた。

「風丸くん!私、私あなたに伝えたいことがあるかもしれない、ううん、あるの!待って!」

唇に、最後の魔法がきらめいた。





title by まほら