夢幻世界へようこそ




キスって病気なのよ、つくしちゃんが突然そんなことを呟くものだから、一緒に眺めていた雑誌を思わず膝に落としてしまった。ブラウスが欲しいね。さっきまで指を差していたページがハラと捲れる。
「病気」
それだけ聞き返してみるとふふっと声を出して笑われた。「病気よ」

キス、しないわけではない。わたしとつくしちゃんが変わってしまったのは去年の冬くらいだったと思う。お互いの、お互いが特別だという想いが行き過ぎてしまったのか、女の子に恋をすることがわたしの生き方なのか、分からないけれど。つくしちゃんがわたしを一番好きと言ってくれた時にわたしも強くそう思ったの。大好きだと思ったの。

「うつしてあげる」

にこりと笑ったつくしちゃんの毒に、わたしはすっかり浸かっていた。



それから数日過ぎた、ある清潔な冷たい朝、通学路の途中につくしちゃんの姿をみとめた。声を掛けると待ち伏せだと笑い、わたしの手を一瞬握ってすぐ離した。ぐるりとつくしちゃんが辺りを見回す。その頬には睫毛の落とす影が陰鬱に映っていた。
「どうかしたの?」
「なんでもないよ」
「そうは見えないわ…顔色、悪いよ」
「じゃあ、ねえ」
今度こそつくしちゃんはわたしの手を取り、細めた目の奥を不思議に光らせ、弓形に唇を吊り上げた。
「どこかへ行こうか」


ステップのように軽々と歩道を滑ると、雷門駅が無表情にわたしたちを待っていた。170円の切符を買って、落とさないよう鞄の内ポケットにしまった。
ホームに降りると十一月の冷たい風が容赦なくふきつけてくる。1時間目の授業が始まる時間になった頃、各駅停車の下りがわたしたちを迎えに来た。
車内に乗客は他に居らず、シートの真ん中を二人で陣取った。そっと手を繋ぐと、ぎゅうと優しい力が込められる。時々大きく揺れながら規則的にリズムを刻み走っていく電車は、まるでわたしたちのこれまでの生活と同じだった。それに気が付くと少し愉快な気分になったが、纏める言葉が見つからなかったので、つくしちゃんとは結局沈黙を崩さずに電車旅を続けた。
乗り換えを一度したのち彼女の目的地らしい駅に到着した。乗り越し精算にはわたしの二日分の昼食代を必要とした。
「磯の香りがする」
「そうよ、海に来たかったの。秋ちゃんと!」
風景がある地点から平らになっている。水平線だった。海を見ていた。数百メートルの道を手探りで辿り、斯くしてわたしたちは海岸の砂浜に降り立った。
「えっ、入るの?」
「もちろんだよ!スカートなんだから楽でしょう。靴下早く脱いで!」
はしゃぐつくしちゃんに誘われて、季節外れの冷たい海水に脚を浸す。寂しく濁った水色に爪先がくすむ。
もっと、もっと先に行くの。どちらが深くまで行けるかな。学校の前に佇んでいたときと打って変わって朗らかな彼女の様子に安心しきって、わたしはその手のひらに自分を任せて凍えながら沈んだ。沈んでいった。いかに波が容易くわたしを連れ去ってしまったか、その恐怖を、きっとわたしは忘れることはできない。
「助けて、助けて!」
つくしちゃん以外誰も居なかった。彼女のか弱い腕ではこの力に勝てなかった。



「秋ちゃん、大丈夫?秋ちゃん」
強く揺さぶられていることに気が付くと同時に、見ていた風景が一転していることも知覚する。どういうわけかここは雷門中の教室だった。首をもたげて壁時計を見ると時刻は五時半を示しており、なるほど外は真っ暗だった。
「わたし、夢見てたかもしれない」
「今?」
「そう、怖い夢」
誰もいない廊下に出ると、つくしちゃんが指を絡ませてくる。例の電車の中を思い出してしまう。
「ねえ、秋ちゃん」
急に立ち止まり、腕を引かれた。ゆっくり振り返ると、つくしちゃんが笑っていた。頬が、唇が、眉が、瞳が、苦しそうに引きつっていた。
「キスって病気なのよ。きっと今に秋ちゃんはわたしのことの他考えられなくなるの。わたしがそうだったように。わたしが夢を見たように」
「つくしちゃん、どうかしたの?いきなり」
繋いでいる手が震える。それがゆっくりと離れて、つくしちゃんの指がわたしの首に絡み付いた。
「い、いや!やめてつくしちゃん!し、死んじゃう…」
ぎちぎちと強くなっていく指の力がわたしの意識をゆっくり奪っていった。



「あーきちゃん」
「……え」
目を覚ますと大画面テレビに流れるスタッフロールとオーケストラ。映画が終わったみたいだ。周りを一周見渡すと、ここがつくしちゃんの家だという事が分かる。
「秋ちゃんたら寝ちゃうんだもんなあ…この映画見たがってたのに」
微笑む顔に奇妙な記憶と記憶を思い出す。駅、電車、海、溺死、教室、廊下、絞殺。思い出すと今度はとんでもない恐怖心が襲いかかってきて、なによりまずこの家を離れなければと決める。
「わ、わたし、帰るね!」
「秋ちゃん、駄目だよ。帰っても…」
つくしちゃんの声を千切ってわたしは「お邪魔しました!」と怒鳴り、道路を必死に駆ける。家に帰ってご飯を食べてとっとと寝よう、明日になればきっと全部忘れて、なんでもない単調で幸せな一日が始まるはずだもの。
「やだ…開かない」
自宅の鍵を鞄の底から掬い、急いで鍵穴にそれを差し込む。震えながら回すとようやく見慣れた玄関が迎えてくれた。しかし、夕方のこの時間に他の家族が誰もいないことはただの一度も無かったのに、今日に限って家の中は静まり返っていた。
「駄目だよ秋ちゃん」
突然背後につくしちゃんの声を聞く。飛び上がるほど驚いた。
「ねえ、つくしちゃん、へんだよ…おかしいよ……」
「病気なのよ」
病気、幾度か言われた言葉。キス、うつしてあげる、考えられなくなる、つくしちゃん以外、夢。そう、そうだ、わたしはずっとつくしちゃん以外の人を見ていない。駅電車海教室廊下家道路家どこにもわたしとつくしちゃん以外の人は居なかった。
「夢…ずっと夢を見てたの?」
「そうだよ。何度覚めても何度覚めてもわたしとあなたしか居ない夢」
そう言ってつくしちゃんはわたしをぎゅっと抱き締めて、それから優しく口付けた。時間が止まるような息が止まるようなキスだった。離した顔を綻ばせ「行こう」と手を引いて、夜の暗がりにつくしちゃんは走っていく。わたしは黙って付いて行く。
だって大好きなつくしちゃんの言うことに何も間違いはないのだもの!恍惚とした脳髄の中で、それだけをわたしははっきり理解していた。キスって病気なのよ、錯覚した彼女の声はそれだけ言って消えた。