アイミス




「お前なあ」

聞き慣れた声が怒気を含んでヘッドフォンの向こう側からやって来た。その前から何度も呼ばれていたようで、辺見先輩は眉毛を釣り上げて自分の耳を指差す。外せってこと。キットヂゴクナンダワ…、仕方なく首に愛用品を掛けた。

「なァんですか良いとこだったのに」
「音漏れ」
「筋少は」
「聞かね」

ハア、と二人してため息を吐くとそれは白くなる。寒いわかったるいわで冬場のオレの生活は例外なくくたびれる。今年は部活にさえもだらしなくなる。恐らくそんな態度を律しにこの人は来たのだろう。三年生のクセに。
三年生、冬。もう直ぐ。

「お前最近部活出てねぇって新部長に愚痴られたぞ」
「先輩は受験生なのに俺なんかに構っちゃっていいの…いいんスかぁ」
「よくねえから早く部活行け」

もうすぐ、卒業してしまう、この人。



高校生になった。辺見先輩の後をイヌみたいに追っかけてしまった。今も昔もアホみたいにこの短気で世話好きで口の悪い男が好きだ、大好きだ。
耳鳴りみたいに余韻を残すドラムを叩く緊迫、顔を見飽きる程会っているのに痛い痛い。毎度スミマセン愛しちゃっているので仕方ない。イヌみたい。声なんて聞けばヨダレも出らあ。

「なんかもーやる気ないっスね」
「何言ってんだよ」
「辺見先輩が居なくて寂しいから?とか言っちゃったらどうします」
「お前ホントに頭イカれてんのな」
「イカれてないですう」

あんたが好きですとか、言っちゃったらどうします。喉がごくりと鳴る。当の本人は叱るだけ叱って去ってしまった。閉じ込めて約四年。どうします。





そして部活に出ようかなと思うと急にその日が自主練習日になる。ここに来たのは辺見先輩に言われたからで端からオレの意志じゃあない。のでクラスメートとゲーセンにでも行こうと決めた。鞄に沈む携帯電話を探す。
サッカーに対するモチベーションは中学時代と比べて明らかに低下していた。そりゃあそうさ。サッカーの名門に入ったのにめちゃくちゃに負け、日本代表のチャンスは落とした。高校のサッカーはお遊び程度に続けていた。
元々スポ根気質ではないオレが投げかけた匙をそれでも手放さなかったのは、帝国のメンバーが、辺見先輩が居たからで。高校をその辺見先輩が卒業したら最後の糸が切れてしまうような、何もかもに意味が無くなってしまうような、そんな気がしていた。
ずっとこのままでいられないこともアンタを好きになるのがオカシイってことも格好付けたポーズが逃げだってことも、悪い頭なりに薄々理解していたよ。
オレ馬鹿でしょう、だからこれからもずっと傍に居て叱ってみせてよ先輩、
「おい成神、どこ行くんだよ」
突然聞こえた声、この前の件を思い出しつつそちらを見ると、やっぱり辺見先輩が居た。



「ホントもうダメっス」
「ああダメだなサボっちゃあな」

例によって首に掛け直したヘッドフォン、今日はジュディマリだと言ったらげらげら笑われてややムカついた。

「ほんとクソマジメっスね〜」
「ちげえだろ」
「だからハゲるんだって」間髪入れず「ハゲてねえって」

なんだか自主練組から見える所に居るのがイヤで歩き出すと、辺見先輩も付いてきてくれた。ヘンなタイミングで甘やかしてくれるんだからイヤになる。実はこの人気付いてたりしないかね。

「まさか何か悩んでんの」
「まさかってなんスか」
「まさか成神が」「うーるさあい」

仕返ししてやったぞとばかりに辺見先輩が明るく笑う。むず痒くなる。あ、ヤバい。
「ここで腐んじゃねえぞ成神」「お前中学ンときネオジャパンとか選ばれてただろ」「」「」
俯いてぽつぽつと低い声を漏らす、正直耳に入らない。歩きながら地面を見つめる。サッカーボールの幻が見えてうんざりしながら。

「あ、それとオレ大学決まったから三月の間も部活行くから」
……え? 「え?」
「やっぱ話聞いてねぇしな」

聞き間違えかと思ったセリフが繰り返される。少し動揺して思わず「辺見先輩が受かる大学なんて」殴られる。
「とにかくな」
立ち止まった先輩を振り返ると心なしか顔の赤い辺見先輩が居る。なんだなんだと思っていたらこういうことだった。

「オレが居ないの寂しいだの言ってたろ。出るから来いよ」
「…はは、言いましたっけそんなこと」
「言っただろ!馬鹿!」

意地悪を言うと(恥ずかしそうに)怒鳴りつけてきた。ヤメてヤメてまじでヤバい。

「行きますよ」
「ああそれでいいんだよ」
「辺見先輩の行ける大学ならオレだって」
「そっちじゃねぇよ!」

頭を抱えてどうしてお前はそうなんだ、と嘆く先輩に、きっと最初で最後の勇気を振り絞る。少しだけ。

「先輩が居ないと寂しいんでもう四年間一緒に居てくださいね」
「な、なんだよ」
「でも卒業したらまた寂しいんで一緒の会社行きましょ」
「むちゃくちゃ言うな」
「ていうかずっと一緒に居ません?良いカップルじゃないスか」
眉間にシワがみるみると寄る。はああ?上がった語尾の行き先。

「好きッス」

戻れない言葉を。悪い一線を。先輩の動揺が空気を震わせた。

(好きです)
(しぬ程好き)

バァカ、なら死ね。そんな声まで聞こえた気がして笑えない。口の中でもごもごと言い訳が膨らんでゆく。先輩は言った。「分かった」
「…え」
「あー…大学」
今度はこちらが顔をしかめる番だった。
「同じ大学入れたらもっかい言いに来てみろよ…受験勉強してればそんなん忘れちまうから、入ってみろよ」
「…素直じゃないんだ」
「何を言ってんだ」

はぐらかされたような許されたような気持ちになって複雑で少々腹が立つ。だけど先輩の赤い頬とか動き回る目を見ているとやっぱりなんでもなくなってしまう。

「ね、それって待っててくれるってことっスよね!」
「意味わかんねェ」
「あの、試しに好きって言ってみてくださいよ、したらオレ部活頑張っちゃおーかな」
「あっお前言ったな。成神大好き好き好き」
「ちっがいます!もおお先輩のばか」

破裂しそうな何かが胸の中にあって、血の通いだしたそれの脈動が歓喜に弾む。閉じ込めていた、見込みの無い気持ちの呼吸が始まる。
絶対に好き。これまでもこれからも。来年もなんて余裕すぎ。

久しぶりにサッカーボールを全力で追いかけてみたくなった。あの日あなたと同じグラウンドを走り回った時のように。追いついて捕まえ、る。