ラメント





(5 years after)


 今日、彼は町を出る。風丸さんは町を出る。



 風丸さんは中学のときの先輩だけど、たまに、ごくたまにメール位はしていた。違う高校だったし部活もあったから、会うことは全然無かったけれど。

 センパイが東京を出て、遠くの大学に進学する。
 それを知ったのは風丸さんが自分の高校を卒業して少し、僕が学年末テスト真っ最中の3月中旬。偶然道端で出会う。

「いつ、行くんですか」
「来月の、4月の1日だな。入学式がその次の土曜日で・・・」
「あは、エイプリルフールみたい」
「違うよ」

 昔みたいに飛び着いて、行かないでください!なんて野暮を言える程僕はもう子どもじゃない。声変わりする前の自分なんてもう思い出せない。
 じゃあ僕見送りに…、口に出しかけて止めた。
 サッカーの仲間がきっとたくさん押し掛ける。そこに僕が居る必要は無い。
 そもそも、風丸さんが中学を出た後この3年間、僕たちは何を話してきた?風丸さんにとって僕は、取るに足る存在なのだろうか?

「頑張ってくださいね」
「ああ、ありがとう」
「メール、します」
「俺もするよ」

 余所余所しさを拭えない。もとより他人だったように。気まずさを払えない。秘密を隠しあっているように。

「宮坂、今年受験だろ、頑張れよ」
「ありがとうございます」
「ん、それじゃあまた」
「はい、また」

 行ってしまうんですか。言い直そうとしてやっぱり閉口。そういえば身長伸びたんだなあ、後ろ姿を見送った。



 風丸さんは稲妻町を出る。時間は知らないけれど、とにかく今日。遠くへ行く。
 僕はいつもより少し早く起きた。着替えて朝のランニングをした。帰ってご飯を食べて支度をして、部活に行った。
 それでも風丸さんとは遂に会えなかった。あの日の後ろ姿が、最後。


 僕はきっとこれから先、何度もあの瞬間を思い出す。何度も何度も、思い出しては泣くだろう(、か)。
 僕は知っていた。風丸さんも知っていた。きっと僕たちはもう連絡を取らない。会うことも無い。僕の存在が、彼の存在が、遠くになって透けて溶けて、消えるのだ。
 僕たちが互いを忘れ合うのに、必要以上の時間も距離もある。.
 もし僕がもう1年早く生まれていたら。どさくさでサッカー部に入っていたら。メールで約束して一緒にどこかに出かけていたら。僕たちはまた会えたのだろうか。今更考えても仕方がないのだけれど。


「いってらっしゃい。さようなら、風丸さん」



*




 夏休みは残り僅かだった。最後の大会は関東だった。
 陸上部を引退したあとの僕といえば、それはもう脱け殻のようになっていた。予備校を探すのも億劫で、夏休みは殆ど家に居た(夏休みをそんな風に過ごすなんて人生で初めてだった)。

 宿題ももう片付けたし、受験勉強もしている。
 だけどそれだけだった。走ることより勉強が楽しいワケがない。
 それに僕は、走ることで忘れようとしていた。あの3月を。
 水色の髪が蘇りそうになって、駄目だ駄目だと頭を振る。



 ひぐらしが鳴り響く。辺りはオレンジ色、明らかにもう夕方だった。
 (寝ちゃってたんだ…)
 ベッドから立ち上がり、気だるさを拭うために伸びをした。
 ふと、スポーツドリンクが欲しくなった。今冷蔵庫には麦茶くらいしか無い筈だ。
 汗ばんだ部屋着を着替えて、財布を手に取る。


 半袖の腕に、サンダルの足に、夏の夕方の風は涼しい。
 部活だったらクールダウンをしている頃かな。思って懐かしんだ。


「いらっしゃいませー」

 アイスも買おうかな、とコンビニに立ち寄る。
(シャーベット、棒アイス、チョコレート…)
 ガラス越しにあれこれ悩んでいると、横目にふと見知った姿が入った気がした。首を回す。
 円堂、守。さん。
 今じゃちょっとした有名人だ。目の前で見るのは久しぶりだった。

「あ、の。円堂さん」

 話しかけるつもりなんてなかったのに、ふらふらと彼に歩み寄る。声までかける。

「ん?なんだ」
「つかぬこと、聞きますけど。あのっ、風丸さんと、連絡取ってます?」

 …どうしたんだろ。思わず口を吐く名前。意識しすぎて忘れられなかった名前。忘れたかった人。ずっと追いつけなかった先輩。喉が、息が詰まる。名前を出すだけでああ、心臓が胸を突き破って出てきそう。
 円堂さんはびっくりした顔をした。

「え!オマエ風丸知ってるのか?えーと…」

 ハッと目が、覚める。
 僕のことなんて覚えていないよ。そうだよ。

「あ…ご、ごめんなさい!失礼します!」

 走って逃げる。彼の前に居たくなかった。どうして話しかけたんだろう。どうしてあんなことを聞いたんだろう。
 店員さんのありがとうございましたー、が千切れて聞こえた。



 風丸さん、風丸さん!
 久しぶりに声に出したせいで、その空白数ヶ月分の思いが溢れだす。必死に忘れようとしていた気持ちが。

 ずるずると、ずっと僕は風丸さんが好きだったんだ。

 幼かった中学の時分から、なんら僕は変わっちゃいない。なんでもないフリをしてきたのに。何年もかけて押し込めてきたのに。風丸さんは遠くに行っちゃったのに。僕のことなんてきっと忘れてしまうのに。

 力いっぱい走るのは久しぶりだった。気持ちが良かったけれど、今までのように走っていると彼のことを忘れられる、という風にはいかなかった。





(3 years after)




 正直に言うと僕は彼をとっくに諦めていたし、それ以前に好きだという気持ちも忘れていた。
 あなたが全てだったのに、別れがあんなに辛かったのに、何度も思い出すだろうな・そう思ったこともあったのに。
 今、僕の視界の端っこで。笑うのは風丸さん。
 最後に見たときより当然大人になっていたけれど、見間違えでは決して無い。風丸さん、その人だった。

 どうしてこんなに打つのだろう、心臓が痛い。
 夏休みだから、東京に帰ってきたのかな。髪、ポニーテールじゃないな。元気なのかな。…僕のこと覚えてくれているのかな。
 もやもや考える。呼び鈴が鳴って醒めた。

「宮坂、14番オーダー行ってくれ!」
「は、はいっ」

 ちょっと、待って。14番って風丸さんが居るところじゃないですか!
 まあそんなこと言えるワケが無い。ビールジョッキで両手を一杯にしたバイトの先輩の背中を見送る。赤く灯る14のボタンを押し消す。




 大学生の長い夏休み。僕は居酒屋のアルバイトに精を出していた。
 勉強と陸上とバイトでいっぱいのなかなか忙しい毎日に、旧友と近況報告しあう暇も、恋愛をする暇も無かった。
 恋愛。
 好きな女の子が出来た時期もあった。
 可愛い子だったけれど、告白には至らなかったし思い返せばそんなに好きでもなかったような気がする。なんとも失礼な話だけれど。




「失礼致します、ご注文承ります」

 カウンター席14番。風丸さんの隣には、茶色くて長い髪のきれいな女性が座っていた。
 風丸さん、こんな声だったっけな。思いながら聞く。ビールやら軟骨やらのメニューを入力していく。

「……とりあえず以上でお願いします」
「はい、ありがとうございます。ではご確認させて頂きます…」

 …気付いてくれないかな。ダメかなあ。
 僕から挨拶する気にはなれなかった。なんだそれ、って自分でも思うけれど、できなかった。怖かった。左胸に付けた名札。手書きの平仮名で りょう 。なんとも居酒屋らしいフレンドリーなものだけど、気付いて欲しいな、宮坂って呼ばれたい。風丸さん、気付いて欲しいです。

「…以上で、よろしいですか」
「はい」

 声を掛けたい。柔らかい髪に触れてしまいたい。あわよくば抱きしめてしまいたい。
 風丸さん、僕です!宮坂です!中学時代陸上部で…
 陸上部で、ほんの数ヶ月だけ一緒だった。
 それだけだよなあ。あとは、メールアドレスと電話番号。
 風丸さんがこれから食べるご飯の名前を厨房に向かって怒鳴りながら、涙を必死に必死に堪えた。



 気付けばもう僕は帰る時間で、そういえば風丸さんが来店してから3時間余り経っていた。
 最初にオーダーを取ってから僕は14番テーブルに行っていない。もう帰ってしまったかな、見に行く。やはりそこにもう風丸さんは居なかった。
 布巾を手にテーブルへ近付く。椅子のクッション、調味料、テーブルの変な形の染み、零れた水。
 あらゆる所を探すのに、風丸さんは(当然)居ない。今頃風丸さんは、一緒に居たきれいな女の人と過ごしているのだろうか。どこに居るんだろう、行くんだろう。


 改めて僕は思い知らされた。
 風丸さんを忘れられたなんてそんな筈無い。未だに僕は風丸さんが好きなのだということを。
 もう風丸さん以上に僕は人を好きになれないだろうということを。
 そして彼に想いを告げる機会はもう永遠に失われてしまったのだ、ということを。



 帰りの電車の中で、アドレス帳から1人の名前を消した。
 これで終わり。これで、終わりです。