さやけき胸のあの痛み
胸の付け根にうっすら赤い線がある。傷だ。もし躊躇いがあの時のわたしに無かったのなら、この膨らみはきっとここに存在していなかった筈。だけどそうしたらわたし生きていられなかったかな。 女の子を抱き留める胸は平らでなければならない、なんて誰かが決めたとでもいうのの。大きくて分厚い手のひらや、逞しい腕とか、名前を囁く低い声、わたしなんにも持ってないよ。それでも、ずっと木野先輩を好きなんです。 久しぶりに泣いたのは昨日、胸に傷を付けたのは一昨日。ブラが当たって痛いと今朝、絆創膏を貼りました。覚悟なんて中途半端だし、痛いし、わたしはどうしても女だし、木野先輩が好きなのはキャプテンだし。 置きっぱなしにしていた百円ショップのカッターナイフをペンスタンドにねじ込む。窓の外はサッカー日和だった。胸のヨドミが邪魔だった。 「音無さん、おはよう」 「おはようございます、木野先輩!」 とはいえ落ち込んだままの気持ちではマネージャー業なんて務まりません。そんな時間も暇も無いし、選手のみなさんには気持ちよく練習して欲しいし、それに木野先輩に沈んだ様子を見せたくありませんから。夏未さんももう着替えて、タオルの準備をしていた。壁山くんや染岡さんたちも続々とやって来て、挨拶をくれる。日曜日の朝は青かった。 * 日の暮れたグラウンドにキャプテンの練習終了の合図が響く。毛先についた汗の玉を拭い、片付けを始めた。一年生がトンボをかけ出し、わたしは先輩たちからタオルを受け取る。こういうのにも性格って出るな、と少しおもしろくなります。風丸先輩のは几帳面に畳まれているし、半田先輩のは無造作に畳まれているようなそのままのような、キャプテンのは使われたまま放り出されていた。 そんなのを眺めながら回収し、部室に運ぶ。道すがら他の部の友達なんかに偶然会って、声をかけながら。 雷門中は本当に人が多くて、だけどその中でわたしと木野先輩が知り合って、男の子だってたくさん居るし格好良いのに、それでも好きになったのは木野先輩。ね、これってとてもすごいことじゃあないですか。憧れの、優しくて可愛くてきれいな木野先輩。恋には一途で臆病な。 わたしは先輩を抱きしめたかった。先輩に抱きしめてもらいたかった。こんなに小さい胸なのに、それがわたしたちを阻むのでしょう、きっと。男の子じゃなくても木野先輩と恋できる存在にわたしはなりたかった。どうしたらいいのかなんてまるで、分からないけれど。 部活動がみんな終わって、更衣室で着替えてあとは帰るだけ。いつもと同じように日曜日は終わる。 木野先輩の方を見るのがなんとなく恥ずかしくて、夏未さんの方に目を逸らした。 「さすが夏未さん、下着まで可愛いです!」 「ふふ、本当だね」 「ちょっと!あなたたちどこを見ているの!」 あはは、と笑い声をあげ、それがふと止むと木野先輩が「あれ」と呟く。 「音無さん、ここ、どうしたの?」 そう言って木野先輩が、自分の胸の付け根を指差した(先輩の下着は青のチェックで、それだけなのにどきりとしました)。 「えっと、」 絆創膏だ。あの切り傷。心配そうにこちらを見つめる木野先輩に、へらりと笑ってみせる。 「ちょっとあせも、掻きこわしちゃって」 「汗疹に絆創膏ってよくないんじゃないかしら」 「そうだね…それに音無さん肌きれいなのに、ダメだよ」 夏未さんと木野先輩に次々に言われ、笑いながら「そうですねえ」と返す。 「でも肌は先輩たちの方がきれいですよお」 先輩たちもそこで心配顔から嬉しそうな笑顔になり、わたしの緊張も解けた。 胸に。 胸の中につける絆創膏もあったらいいのにね、なんて馬鹿みたいなことをふと思う。チクリと痛むのが治ったらいいのに。悲しいおもいを隠せたらいいのに。 夏未さんが車で帰ったので、わたしは木野先輩とふたりきり。前の方にキャプテンと風丸先輩の姿があって、ふと木野先輩の横顔を窺うと、やっぱりキャプテンを見つめていた。 「…もしキャプテンが」 と切り出すと、木野先輩はおもしろいくらい肩を震わせてこちらを見る。 「女の子だったら、やっぱりあんな感じなんですかねえ」 「なあに、それ」 木野先輩がおもしろそうに目を細める。 「あんな感じなんじゃないかな」 「みなさん、絶対勝ちますわよ!みたいな」 「うふふ、ちょっと分かるかも…あ、でも」 口元に手をあて、木野先輩がこちらを見る。思わず首を傾げると、先輩がとんでもないことを言った。 「案外音無さんみたいな感じかもしれないね」 「…えっ」 「明るくって元気をくれて、ううん…とにかく元気な感じとか」 きっとわたしの目は今丸い。一瞬喉に声が詰まってしまう。 「や、やだなあわたしなんか、キャプテンとは全然違いますよお」 「やあね、例え話だよ」 さよなら、じゃあまた明日。振られた手に振り返し、わたしはひとり。 ならもしもわたしが男の子だったら、先輩はわたしのこと好きになっちゃいました?…そんなこと聞ける筈なかった。 ああだけど、今日は素敵な日だったな。木野先輩を、わたしはやっぱり大好きです。どうしたって男の子にはなれないけれど、先輩が好きなのはキャプテンだけど、気持ちを伝えるのは怖いけれど、いつか好きになってくれたらいいのにな。 胸の奥がぎゅう、と泣いて震える。でも恋の痛みは優しかった。絆創膏はまだ外せない。きれいに癒えてももう切らない。木野先輩に褒めてもらえる可愛い後輩で、女の子でありたいなと、今、心の底からわたしは願うのです。 |