わたしはいいの




ぬるい潮風に髪を掴まれる。足首から下を脱ぎ、海水にさらしていた。
この海は随分汚くて、ごみばかりで淀んでいる。でもまあそんなものでしょう。わたしはなんだかんだで勝手に楽しんでいる。

「秋」

さっきまで隣に居たひとが呼ぶ。もう顔の判別ができないくらいに夜だった。表情なんてわかる筈もない。
風も海も砂浜も汚れて、あなたが誰かも分からなくて、それでもあなたはわたしを呼んで。滅茶苦茶だった。不気味だった。
それでもわたしは、固定された部品のようにここから動けない。

「アキ」

わたしはここよ。もしかしてあなたにもわたしが見えないの?

「めちゃくちゃだよ」

足首までしか濡れないわたしのここを通過して、人影は真っ暗な海を突き進んでいく。ざぶざぶざぶざぶ、波の声よりなお強く、水をかきわけて行こうとする。

「どこ行くの」

長いこと使っていなかったかのように喉は錆び、かすれた声だけが絞り出される。

「帰れなくなるよ」

遠くなる。沈んでいく。沈んでいくのに、

「きみはめちゃくちゃだよ」

さっきの声がぼわあん、反響する。
あ、分かったわ。これはきっとそうね







「木野さん」

海が消える。代わりに自分の腕枕。

「あの、木野さん」
「あ…あ、あら冬花さん!」

驚いて飛び起きたわたしを見て更に、冬花さんが驚いた。
飛び起き、た。わたしは寝ていたようだ。ご丁寧に夢付きで。

「大丈夫?今日はもう無理しない方が…」
「ううん、大丈夫。ごめんねありがとう」

椅子から立つ。やや立ち眩み。
わたしがぐちゃぐちゃ。そんなことないわ。わたしはいつでも大丈夫な筈。
例えば好きな人が女の子とデートしていても、大丈夫な、筈。

さて、わたしは誰を海に沈めてしまったの?
どうして辺りはあんなに汚かったの?
…考えても仕方がない。わたしには夢でなく現実でやるべきことがたくさんあるんだもの。
眠る夢なんて忘れてしまおう。それには触れることさえできないんだから。
だからわたしは明るい世界でみんなの夢を支えたい。一緒に居たい。

だけど今日だけ。
今夜だけ少し泣いてしまいたいと思う。
あなたの笑い声を思って、あの子の笑い声を思って、ほんの少しだけ、泣くのだ。