はこの底
大好きだった××はもう居なくなってしまった。 あの子は誰なの。クリプト、って誰なの。 優しかった筈の赤い目がぎろりと睨んでくる。わたしは思わず目を逸らす。 「アタシは××じゃないんだよ」 突き飛ばされて、おもいきり尻餅をついてしまった。 おずおず、顔を上げる。 腕を組んで仁王立ち。そんな立ち方のクセは以前と変わらないままなのに、見下す目つきは鋭い、痛い。 ねぇ違うでしょう、あなたは誰なの。クリプトって誰なの。 わたしはまだ変われない。パンドラなんかになれない。 …パンドラになっても、変わらない。 不幸オンナだ、呪われるぞ!あっち行け!ばかしんじゃえ! 舌足らずな悪口、幼い思い出。 そして今度は災いをばら撒いた神話の女にわたしはなぞらえられた。 ほうら、今も昔も変わらない。 そんなわたしをいつもいつもあなたは助けてくれた。 ××はとても強くて、とても優しくて、きれいだった。格好良かった。 悪口を浴びせられて泣いていた弱いわたしを助けてくれた。 『つよくなれるよ』 戯れにしてくれたおまじない。おでこにしてくれた口付け。 うんと昔のことだけれど、あなたには些細なことだったかもしれないけれど、覚えてくれているのだろうか。 わたしを救ってくれた優しいおまじない。 「アンタはアタシより弱いんだ」 火が着いたような赤い目がギロリ。わたしが弱いことなんて知っている。そんなことあなたも知っている。 「セカンドランクのアンタが、」 …そう、みんなでやっていたサッカーの輪の中に入れてくれたのもあなただった。 ろくにボールも蹴れないわたしを笑いながらも一緒に練習してくれた。 思えばサッカーがきっかけで、みんなと打ち解けられたんだ。 「気安く呼ばないで頂戴。それにアタシはもうクリプトだ」 突然、目線が同じ高さになる。しゃがみこんでわたしの顎を掴み、笑う。 なんて歪んでしまったのだろう。あなたはこんなに怖い顔をする人だったんだ。 それでもきれいだった、だから尚更怖かった。 くすり、笑いながら 「パンドラ」 呼ばれ、た。 やだ、やだ!あなたにその名前で呼ばれたくない!あの日みたいに可愛く笑ってわたしのちゃんとした名前を呼んで、それから手を引いてまたわたしを助けてわたしはパンドラじゃないのよ××、ねえ××どうして××! 声にならない悲鳴の代わりに、わたしの目からはらはらと涙が零れ落ちた。ああ止まらない。息が苦しくなってくる。 その時。ほんの一瞬だけ赤い目の中に、かつての彼女の面影を見た。 細められた目の奥で、しょうがないわねぇ、と笑う優しい姿がゆらめいて消える。 小さなため息。それがふわりとわたしをくすぐった。 すっと立ち上がり、いきなりわたしの顔の前に右手を構えてくる。 パチン!人差し指がそのまま額を思い切り叩く。…すごく痛い。 強くなりなよ 去り際に小さな、声。つよくなりなよ、額、おまじない。 「っクリプト、様!」 息が詰まる。走りだす鼓動! ねぇ覚えていたの?あなたは××なの?ずっと変わらないの? 叫ぼうとするも、彼女はもう行ってしまった後だった。 …強く、なるの。 まだじんじんと痛む額、そこに飾りをつける。頬には紅。ジェミニストーム、のユニフォームを身に着けて。 わたしはパンドラ。 あなたがクリプト様、であり続けようとするのなら、わたしはパンドラになる。強くなる。 あの日あの子が叱った呼び名、不幸オンナにわたしはなって…どこに行くんだろう。どうなってしまうのだろう。 とりあえずもしもまた彼女を正しい名前で呼ぶことのできる日がきたら、デコピン痛かったよ馬鹿力!なんて言ってやろうと思う。 鏡を見ると、腫れた目をしたパンドラが居た。 ××。最後に一度だけ呟き、しまい込んで閉じ込める。 |