名前も恋も気持ちも夢も




 名前の呼べるうちは未だ良かった。もう無理そうだ。奴の名前を忘れたかの如く俺は頑なに、おいとか、なぁなんて奴を呼んでいた。誰に咎められるということもなかったが、名前で呼ばないというのはなんというか失礼な気がして、ひとり後ろめたく思っていた。自分で始めたくせになあ。
 それでもちゃんと呼べないのは、俺が勝手にとんでもないせいだ。とんでもない真実、俺の深層。俺は奴が好きなのだ。
 奴って誰か?…久しぶりに言う、一度だけ言う。
 咲山修二、同級生(♂)。俺はあいつが好きなのだ。片や俺はといえばとても奴のコイビトにゃあ似つかわしくねぇ、逞しい帝国学園サッカー部の背番号9番。

 しかしオレが呼ばないからといってあちらも呼ばないなんてことは無かった。他の友人やら部員たちと同じように奴の粗暴な声は「寺門」と放つ。
 男の恋愛なんて性欲ありきとか言われるけれど、オレはどうにかしているらしかった。これは少女漫画だ(※メタファー)。名前を呼ばれるだの名前を呼べないだの、それから一緒に帰宅、僅かに手とかが触れる、教科書を借りる、辞書を貸す…そういった日常的なことに一々歓喜する毎日だった。キスだのその次だのを想うより、もしもアイツもオレを好きだったら、という可能性を思案する方がよっぽど楽しかった。こんなイカつい男の中にそんな想いが眠っているだなんて誰が想像できるだろうか。そうやって、なんて気色が悪いオレ、と一々消沈する毎日でもあった。なにせ相手も男である。
 そんな気持ちを知ってか知らずか、いいや知ってる筈は無いのだが、アイツはよくオレに話しかけたりなんだりをしてくる。それはサッカー部のレギュラー同士だし当たり前だが、それを差し引いてもそう思えるのは、つまりそれなり回数や時間を重ねているということで。
 それで名前を呼べないというのだから寂しいものである。だがどうしても無理なこと位、人間なら一つや二つある。彼も呼ばれないことに最早気付いているのかもしれない。それで友情に綻びが生じてしまうのなら…仕方が無いと言えなくもない。それならばいっそ全部無しで良い。少女漫画(※)にあるまじきバッドエンドが好ましい。誰にも相談できないオレがひとりでぼんやり悩んだ、ソレが結論だった。



「寺門!」

 かの声がオレに投げつけられる。心臓は跳ねて飛ぶ。昼休みは残り5分。

「…なんだ」
「話があるからオモテ出ろ」
「あとじゃ駄目か、もう授業始まんぞ」
「寺門クン真面目ね」
「るせ佐久間」

 わかったよ、と渋々席を立つ。5分で終わらせてやる/このままサボって二人で居てやる。相反するふたつの意見に会議は揺れた。
 ワイシャツだけのうっすい背中に続く。奴がプレートの無い空き教室の扉を乱暴に開けると、チョークや埃の混ざる粉っぽい臭いがした。


「あのよ、」

 扉を締めて向き合うまでの僅かな沈黙を破ったのは俺では無い。

「お前オレのこと避けてねえ?」

 遠慮なしの視線がぶつけられて臆する。緊張、焦燥。っていうかなんだ、その女子みたいな質問。気にすんなよ・と思う自分が実は一番気にしていて、だからこんな事態を招いた。…さあ、どうする。

「…避けてたら、こんなとこに居ねえ」
「違ェよ!」

 マスク越しでも声は冴え渡る。心をギリリと不安が蝕む。

「ちゃんと言えよ」
「何を、だよ」

 ガチリと目と目の線が噛み合う。絡み合う?外せない。解けない。思わず心臓ががなる・われる・だれる、聞こえる。緊張なんだか興奮なんだか、正常なんだか異常なんだか。

「なんで」
 赤い耳を見つける。
「寺門はオレのことちゃんと呼ばないんだよ」

 あ、あ、あれ?おう?ん??眉間に皺とか口はポカン、目の前のアイツは顔面がいよいよ真っ赤で、場景は奇の極みを尽くしていた。気付かれてたのはこの際前提として、どうしてお前まで恥じらってるんだ。

「お前、な」
「お前じゃねぇよ咲山だよ!」

 諫めるか確かめるか何すりゃいいのかと思案を巡らせて失敗。呼べば終わる。ヤメロ恥ずかしい。
 好きだなんて言ってみろ、全部覚めるし全部冷める。イタい。それから今日の放課後からハブだ。壁とサッカーだ。それからクラスでは明日から寺門菌が…

「寺門!」
「なっ、んだよ」
「テメーの隠し事言えよ、黙ってんじゃねえよ」

 詰め寄られて、胸ぐらまで捕まえられる。おい止せ暴走ヤロウ、喧嘩上等はフィールドで頼む。
 蛇に睨まれているとチャイムが鳴った。近所の喧騒はピタリと止んだ。緊張の糸がぶっちぎられ、それと一緒にオレの中で何か別なのが千切れた。人はそれを理性とか正気などと呼ぶ。あー、あー。

「好きなんだよ!お前が!!」

 腹から真っ直ぐ声が登り、寺門大貴最大の秘密は斯くて解き放たれた。あばよ平穏。明日からはホモでハブだ。ざまあ。

「う、寺門、」
「なんだよ」
「…なんだよ、咲山」

 最後だ最後。咲山と呼べば咲山は反応する。お前、じゃ誰だか分からない。当たり前のことが幸福だったのか、なんて童話じゃあるまいし老人じゃあるまいし。だけどオレはきっと今までもったいねえことしてたのだろう。

(だけど終わりだ、大好きだったぜ咲山修二、)

 マスクの下の声を待つつもりは無かった。踵を返す。英語の担当にはウンコしてましたとでも言っておけばいい。どうせ明日からオレバイオハザードだ。
 ぐ、と強い力に右の手首が捕まえられた。それは勿論咲山の馬鹿力。

「待てよ」
「行くよ」
「聞けよ」
「ヤだよ」

 半ば自棄になって頑な、もう終わりだから。すると咲山の息を吸う声がした。

「オレだってな、お前が好き、なんだよ!!」

 …それは先ほどのオレよか余程でかい声だった。でかい声すぎてわけ分かんねえ、え、なんだよ、オレたちじゃあ、
 咲山を振り返ろうと首を回すと、教室の前ドアがガララと開いて教師の怒号が飛んだ。そういや隣は授業中の1年の教室。

「オラァ、授業中だぞテメーら!」

 やべー、と咲山が呟く。逃げなければと掴まれていた手を握り返して、机の合間を縫って後方のドアに辿り着く、それからそれを思い切りスライドさせる。朗らかに笑う午後の陽向の廊下を、走り抜けた。
「男じゃん!」「さきやまさん」「サッカー部だ」「フォワードの?」
 ギャラリーと思しき遠慮なしの声を遠くに聞く。暫くはチープな噂の種、はは。

「…寺門」

 後ろを走る咲山が細い声を出す。上履きの騒がしい音はやまない。

「後でな、」

 ささやかな逃避行の果てに夢の島はきっと無いが、兎に角今大事なのは、この手を離さないことなのだ。

「修二」


 お戯れはこれから。お楽しみもまだ我慢。たがが外れて少し調子に乗っちまった2人の為に、光彩の眩しい秋口の午後。