アドルフのナイフ



「武藤がまたやったよ」

 声を聞き頭をあげると隆一郎が居た。
 昼休みはいつもひとり。マキは誰かと話すの大好きだけど、コミュニティーを常につくっておくのはそんなに好きじゃない。色んな友達が居るけど、大切な友達は居ない。まあ隆や論と居ることは多いのだけど、だからって武藤論のこと、そんなに気にする義理は無い。のに。

「昨日なんだけどよー…ほんで今日は電話も出ねえしメールも返って来ない」

 隆がどかりとマキの前の席に座る。っていうかコイツまたシャチョーシュッキン?
 隆は学校が好きじゃないとか前言ってた。まあマキもそんなに好きではないよ。だけど居場所があるなら行くべきだ、って思ってる。そして論に至っては外に出ることすら止めてしまった。彼が独りで暮らすアパートは、何度か行ったが毎度酷い有り様だ。

「マキ、家行ってやれよ」
「なんで?論がそーいう風になんの、もう最近よくあることじゃん」
「お前なあ・・・」

 隆が脱色された頭髪を困ったようにがしがしとやる。髪色といい焼けた肌といい目つきの悪さといい、隆ってどうしてこんなにガラが悪いのか。

「武藤のこと心配じゃねえの?」

 その割今回のように友人思いなのだからなんだか笑ってしまう。隆ってヘンなヤツ。
 だけどマキはそんな隆が嫌いではなかった、というか好きだった。だからこそこうやって、オトコだオンナだを考えずに論を見舞うよう言う隆のニブさには、呆れるというかがっかりする。マキのことオンナとして見てないでしょ、ってね。

「俺は今日バイトだから行かないけどな」
「はあ?なんなの隆」

 もうホントに、ガッカリ!



 放課後、ローファーを引っ掛けて昇降口に背を向けると、隆がマキの背中を叩いて走っていった。

「論によろしく!」

 返事をする気も起きず、のろのろと歩き出す。論のアパートはそう遠くでは無いし、場所も覚えてるから問題無い。だけどこんな日の論はヘンだから、正直ひとりで行きたいと思えなかった。それでもこうして向かってるのは隆の頼みだから?んん、そんなに好きになった覚えも、人のお願い聞ける程良い子になった覚えもないのになあ。
 マキが隆たちと知り合ったとき既に隆と論は友人だった(論はその頃まだ学校にちゃんと来ていた)。真逆のタイプかと思ったけど二人は案外良いコンビで、体から動く隆と頭から動く論の組み合わせは見ていて飽きなかった。二人とマキも全然違う感じだけど、いつも誰かと一緒、というのを好まない辺りが似ていた。連むときは連むし、気分じゃないときは何も話さない。楽な関係が心地よかった。
 だから論が学校に来なくなったこと、最初は悲しかった。彼が今日のように、自分を自分で傷つける……

「論、居るよね?入るよ」

 手首やら腿やらを切ることも、すごく悲しかった。

「マキちゃん…」

 やや久しぶりに会った論は相変わらず長い髪をボサボサにして、焦点の合わない瞳でマキを見る。

「もう、なんで鍵かけないワケ?」
「殺されるのも犯されるのも盗られるのも、怖くないもん」




 それからマキは散らかり放題の部屋の掃除を始めた。と言ってもマキだってそんなに片付けが得意な方ではないので、積んだり寄せたりばかりだけど。
 掃除機までかけてやる。全部終わり、お茶でも淹れてよと寝室の論に声を掛けにいく。
 論がこんな風になったのはどうしてなのか、マキはちゃんと知らなかった。実は隆もだった(彼が嘘を吐いていなければ)。ただまあ、学校行きたく無い日だってあるでしょう、たまには。論はたまたまそれが長いだけ。単にそうとしか思っていなかった。手首を切るのも腿を裂くのも、いきなり泣き出すのもたまたまそんな気分なだけ………とはさすがに隆もマキも思わなかった。彼の自傷、それから不摂生が始まってから、マキたちは論を頻繁に訪ねるようになった。
 切った日は偶にメールが来る。隆宛だったりマキ宛だったり。彼は淋しがっていたのだ。隆は何度でも心配したしその度論を訪ねるか、無理ならマキを行かせたけれど、マキは正直もうイヤになっていた。勝手にしてよって思ってしまった。論とまた学校で会いたいという気持ちに、変わりは無い筈なのに。
 それからというもの、論をイヤになるのとこんな自分をイヤになるのが交互にやって来る。隆を好きだから倣って見捨てない、というのもあった。自己満足と自己嫌悪のマーブルだった。

「論、終わったよ。出てきてよ」

 ベッドに居る論を覗く。うーん、と生返事が返ってくる。誰の為にやったと思ってんのよ!なんだか嫌な気分になって、論に詰め寄る。

「ちょぉっと、聞いてる?!」

 叫ぶ。するとどろりとした瞳で、論がマキを振り返った。

「マキちゃん」

 どきん。見つめられる。この場合のどきんはときめきなんかじゃない、恐怖だった。いつもおかしいけど、今日の論は更におかしい。早く、帰り、たい。そう思うや否や。論がマキの手首を強く掴んだ。そしてベッドに叩きつける。

「いたっ…、さ、論…」
「マキちゃん、これ分かる?」

 驚きで心臓が早鐘。そして論は自分の左手首を差し出した。傷だらけだ。何も言えずにいるとさらに論が続ける。

「マキちゃんが隆ちゃん好きだって気付いてる」
「え…」
「僕は、隆ちゃんもマキちゃんも、大好きだよ」

 困惑するマキを仰向けにして、論がマキを見下ろしてきた。押し倒され状態だった。
 さっき隆をバカにしたけど、バカはマキだ。論だってオトコなのに。隆のことばっか考えて、マキはホントにバカだよ。隆、こわい、たすけて

「手首が見たい」

 鼓動が猛スピード、マキの右腕を手に取って、論は笑った。

「しろい」

 マキの切れ切れな呼吸が部屋に響く。その上から、カリ、カリリ、独特の音。それは論がカッターナイフの刃を伸ばす音だった。カチャ、刃の固定。論の左手にマキの腕、右手にナイフ。やだあ、論、ウソでしょ、さとし、ヤメテ、怖い、隆…

「あ…あっ!」

 右手首がピリリと痛む。チラと目を遣ると赤いものが浮いていた。そして論はそれを舐める。舌の生暖かい感触が這って、なんとも言えない気分になる。ぞくりとした。

「いつかね、」

 舌が退く。論は薄ら笑いを浮かべている。カッターナイフを持った手でマキの頬に触った。刃が怖い。論はそのまま、マキの唇に自分の唇を押し付けた。間もなく血の味。唾液を引いて離れる。

「マキちゃんも切りたかった」

 自分が震えているのがわかる。だけど逃げられない。怖かった。

「マキちゃんが好きだからぁ…」
「さと、し」
「隆一郎には」

 ぴくん、カッターナイフが胸部に寄る。体が跳ねる。

「ひみつだよ」

 隆の名前が出て、ああ、と涙腺が緩まる。このことを話して二人で論から離れることだってできるのに、きっと自分にそれはできないのだろうと思う。笑わない瞳と、唇の隙間から漏れる笑い声。論の手がマキのスカートを捲るのに気付いた。一体次の傷はどこに。
 マキを留まらせるのは恐怖だけだった。マキが思い遣るべき論はどこにも、きっともう居ないから。








「オッス」

 次の昼休み、今日も大遅刻の隆がマキの肩を叩く。

「論、大丈夫だったか」

 軽い調子で尋ねられて、隆がフツーに論を心配しているのが分かって、思わず泣きそうになる。

「論は……」

 言わなくちゃ。言っちゃダメ。
 それとそれが混じって、どろどろ、マキはどうしたら、

「昨日も、切ったけど、たぶんヘーキ」

 隆にはひみつ。論の言葉が蘇る。マキは自分たちのこの関係を壊すのがどうしようもなく怖かった。未だ、ダメ。
 そっかー、と呟く隆。ワイシャツを捲った下の浅黒い腕をふと見ると、その手首に絆創膏があった。



 武藤がまたやったよ
 マキちゃんも 切りたかった
 僕は隆ちゃんもマキちゃんも 大好きだよ



 踵を返す隆に声を掛けることはできなかった。少なくともマキはこのままが良かったから。このままが正しいのだと、マキは信じている、ね。