銘々の春へ




 かっちり閉めていたワイシャツの第一ボタンを外し、窮屈だったリボンを緩める。ブレザーのボタンも全部開けておく。
 胸に同じ造花をピンで刺した集団がぞろぞろと校舎から流れていく。わたしはそれを窓から見ていた。卒業式もホームルームも全部終わってしまった。わたしたちはもう雷門中の生徒ではない、これから。
 友達の秋ちゃんと待ち合わせをしているので、もう明日から足を踏み入れることのできない三年の教室とわたしはゆっくり最後のお別れをすることができた。ちらほらと残っていたクラスメイトと話したり、アルバムにメッセージを書き合ってすごす。やがて、彼らも帰る。わたしひとりが取り残された。
 優しい三年間の終わり。楽しくて素敵な中学生活の日々は、大好きな雷門中は、これから二度と帰って来ない。駆け寄った窓から先程のクラスメイトを探すと、相手もこちらを見てくれた。手を振る、振り返される。
 秋ちゃんの部活の集まり、終わったかな。ふと思いつく。行ってみよう。そうしてわたしも廊下に出た。
 最後の最後、教室を振り返ったけど勿論誰も居ない。ぴかぴかに磨かれた床に寂しさをおぼえ、お別れを終えた。


 校舎に残っている人はまだ僅かに居て、後輩に泣きつかれている人やアルバムに書きっこをしている人、携帯電話の赤外線を結ぶ人などがいた。友達に手を振り声を掛け歩いていると、二年生のときのクラスメイトに出会う。
 東くんがわたしを呼んで笑っている。ああ、彼とももう、これからは。笑顔を返すけど、急に泣きそうになる。理由は自分でも分かっていた、今まで分からないフリをしてきた理由を。


「卒業おめでとー」
「うん、おめでとう」

 東くんと一緒に居た男子がニヤリと笑いながら立ち去る。陸上部の速水くん、頭の中で顔と名前が一致する。気が利くとも気が早いともいえる彼の早業に、そういえば音速を超える云々と評価される速水くんの実績を思い出した。
 東くんの、去年からずっと高くなった背。声も落ち着いてきたし顔も、かっこよくなった。男の子の成長は驚く程の変化を伴う。クラスメイトだったとき、ずっと彼を目で追っていた頃の姿を思い出そうとするのだけれど、現在の彼を目の前にしてしまうとなかなか上手くいかないものだ。

「大谷さんもこれ、書いてよ。アルバム」
「ん、じゃあわたしにも書いてね」
「オッケー任せて」

 へらりと笑う顔に相変わらず愛嬌があって、どきり、くすぐったくなる。彼の良いところのひとつだと思う。
 カバンからペンの中で一番お気に入りのピンクを出し、一文字目を書く。これから東くんはこれを見てわたしを思い出してくれるの。そう考えるとほんとうに大事なことのように思えて、少し指が震えた。
 無言になってお互いのアルバムに文字列を刻む。この一瞬がこれからのわたし、これからのあなた。

 中学で唯一恋をした人。想いは告げないままお別れをするね。…東くんの学ランのボタン、一と三の間に意気地無しなわたしを嘲笑う空間があった。ピンク色のわたしの文字がじわりと視界で滲む。彼の第二ボタンを持つ誰かが、きっと東くんを幸せにしてくれたらいいね。・・なんて、そんな余裕は無いよ。

「…終わったよ」
「おう、ありがと」

 東くんからもわたしのアルバムを返される。女の子たちより大きな字が踊っていた。元気で、とか、そんな言葉。

「第二ボタン無いね、東くん」
「うん、無事に売り切れ」
「あはは」

 Vサインで自慢気に笑う、東くんにとってわたしはどんな子だった?聞く意味も度胸も無い疑問が、わたしの痛みをちくちくと刺す。

「高校は」
「速水と一緒の…大谷さんは?」
「わたしは秋ちゃんと一緒の…」

 校名を言い合う。反対方向ねえ、笑う。全然会わなさそう。制服可愛いのよ。校則厳しいんだろ。部活たくさんあるらしいよ。
 …違う違う、違うの。当たり障りの無い話しよりも大切で、ずっと伝えたいことば。それはどうしても胸につかえてしまって出てこない。第二ボタンを結んでいた糸が解れていて、これが見知らぬ誰かに繋がっていると思うと、やはりどうやっても想いは出てこなかった。

「じゃあね、元気でね」
「大谷さんもね」
「どこかで会ったら声掛けてね、きっと」
「そっちこそ無視するなよー」

「じゃあね」
「うん、バイバイ」

 最後の最後、東くんを振り返ったけど勿論呼び止められはしない。お別れを、終えた。




 大好きって言ってみたかった。本当は、知って欲しかった。東くんに好きになってもらいたかった。言われてみたかった。
 わたしではドラマみたいに上手にいかないことなんて分かっていたのに、不格好に傷付くことを怖がっていただけで、何も手に入らなかった。
 誰かが東くんにもらったボタン。その子はわたしより何百倍の勇気をもって、好きをもって彼に話し掛けたのね。

 素敵な中学生活の日々は、大好きな雷門中は、これから二度と帰って来ない。東くんに恋をした気持ちにはもう、出会えない。
 卒業。

 あなたがいつかどこかで幸せになることを祈るの、祈る、あなたが…。
 言葉の代わりに涙がぽろぽろ、次から次へと出ていく。遠くなっていく喧騒にあなたは居る。さようなら、さようなら。