このままがよかったの




 東くんが雷門を去ることになった。東京を去ることになった。平淡な平日のある朝、教室に投げ込まれたその爆弾。東くんは担任の隣で、ぴしっと背筋を伸ばして立っていた。

「えーと、親父の都合で、まぁそういうことに決まっちゃって」
「今まで楽しかったよ、ありがとう」

 がやがやがやと教室は沸く。それはもう東くんはみんなと友達だったもの。わたしだって大好きだったから、当然突然そんなことを言われて悲しまない筈が無い。秋ちゃんに視線をやると、ぽかんと開けた唇に手を添えてやはり驚いていた。

 放課後になると、本当に色んなタイプの人が東くんの元を訪れて、悲しみを伝えていた。
「行くなよ東ぁ!」「東くんが居なきゃつまらないね」「テスト最終日のカラオケどうすんだよー」
 東くんは悲しそうに、でもいつものカラッとした笑顔で繰り返していた。もう決まっちゃったから、と。


「東くん」

 彼の帰り際でわたしはようやく二人きりになるチャンスを掴む。

「大谷さん」

 わたしは階段を降りながらそっと話し始めた。

「東くん、行っちゃうんだね。みんな悲しんでた」
「つってもなあ…俺のせいじゃないしね」

 からからと笑って見せるそれが空元気だってわたしの耳にはちゃんと届いた。東くんも悲しい?なんて野暮は勿論聞かない。

「にしても東くんはあんなに友達が居たんだ」

 それが嬉しくて笑ってみせると、彼は当たり前だろと声に出して、ははは、と。

「あ」
「ん、なに」
「ノートね、返し損ねてた」
「ああ」
 東くんに借りたノート。風邪をひいた日の。秋ちゃんに借りようとしたら秋ちゃんは楽しそうに唇を引いた、「東くんに借りちゃいなよ」
 ふと浮かんだ。

「ねえ東くん。これ、貰っていいかな?」

 すると不思議そうに首を傾げて東くんは考え込み、わたしの手からノートを取った。

「こんなんでも、あっちで授業ついてけなくなったら困るからなあー…つかこんな汚いのより大谷さん、自分の奴がいいっしょ」

 なんにも言えなかった。些細なことだけど、駄目と言われたら駄目だもの。


 それからして東くんは本当に都外へ越してしまった。
 東くんを思い出せるものといったら過去の学校行事で撮った写真やらクラスのプリント位しかもう無い。新しい思い出はもう、生まれない。

(なにも変えられなかった?)
(例えば少し勇気を出してれば、)

 そんな、好きなだけで何もできなかった、中学半ばのわたしの胸の痛みの話。