唇の言う





「あ」「あれ」

 二人分の声が重なって、プラットフォームをカツンと鳴らす空野さんの靴の先っぽは尖っていた。自分にはとても履けないなと最近買ったナイキに視線を落とした。

「中谷くんもこんな時間に出歩くんだねえ」
「たまたまです…あの、友達にライブ誘われて」
「あれ、もしかして…………あぁやっぱり同じのだ」

 アーティストを言い合い、自分たちがこれまで同じ空間に居たことを確認して少し笑う。23時をやや回ってしまったのは、友人と食事をしていたからだった。聞かずとも空野さんも同じだろう。

「私服初めて見たなあ。いいじゃん。どう?今度どっか行こうか」
「あ…はい、いいですね」
「えー、本気だよ?」

 静かなホームに空野さんの笑い声が明るく響く。どうも他人と上手に話せない自分を空野さんはバカにせず、話し手に回ってくれるのに、僕はそれでもちゃんと答えをうまく作れない。こんな自分がイヤだった、へったくそな笑いが鬱陶しかった。
 人の言うことを鵜呑みにするから僕はウソとホントの違いも分からない。本音建て前、冗談嘘本気、傷つくたびに自分を責めて頭に響くせせら笑う声はどこかのだれか。
 空野さんの言葉などは特に他の人よりのらりくらりしているというのに、しかし空野さんを信じ続けてしまうのはやはり、彼が僕に優しく接してくれるからに他ならない。数少ない頼れる人。
 …沈黙を破る空野さんの鼻歌は、今日のバンドのアンコール曲。僕との話すのに飽きたが故じゃないかなんて…被害妄想?にズキリと心が痛んでばかみたいで、電光掲示とアナログ時計を視線が行き来する。

「ねぇ中谷くんてさあ」
「え、はい」
 いきなり話しかけられて思わず肩を震わせると、空野さんはなんだよと笑った。
「なんか小動物ぽいよね」
「えっと…え?」
「褒めてる褒めてる」

 からかわれた。なんてひとだ。電車よ、早く来て(電車なら黙りっぱなしでもヘンじゃないよねマナー的な意味で)、ともやもやしていると、ようやく念願の各駅停車がお迎えに来てくれた。無言で乗り込む。


 たた、たたん。走行音のリズムが響く。ドアのすぐそばに立つ空野さんと僕はゆっくり会話を再開する。

「なにキョロキョロしてるの」
「こんな遅くに電車って、混むんですね」
「この時間だから混むんだよ」
「はあ…」

 あまり遅くまで外には居ない。勿論電車になんて乗らない。こんな些細な経験にも一年の歳の差を感じ、空野さんはやっぱり僕とは圧倒的に違うひとだな、と思う。きっとサッカーという共通項が無ければ彼は今向こうの空席にひとりで座っていたかもしれないし、車両すら違ったかもしれないのだ。
 それでも僕はこうして空野さんと話をする…空野さんの話を聞くし、空野さんはここにいてくれる。不思議だけど嬉しくて、申し訳ないけど離れないでいて欲しい。

「どこまででしたっけ」
「あとひと駅。中谷くん終点だよね?」
「そうです」

 窓の外は暗い夜、もしも僕が女の子だったら空野さんは僕の終点まで送ってくれただろう。夜は怖い、人は怖い、ひとりは嫌い。空野さんがもしも、もしも傍に居てくれたとしたら。…そうしたら?

 たたん、たたん…。電車の速度がやや落ちて、車内放送が停車駅を告げる。
「じゃ、明日また練習でね」
「はい」
 ホームに差し掛かり、空野さんがバックの肩紐をかけ直した。
「あのっ」
「ん?」
 アラームと共に開くドア。沈黙、発車ベル。空野さんはまだ行かない…呼び止めたのは僕だけど。どうしよう、僕は何を言いたいの?
 勝手に困惑する僕を、空野さんがクスと笑う。
「…中谷くんは寂しがりだね」
「え」
 頬。空野さんは言うと共に僕の頬にその唇を、そっと押し付けてきた。
「ちょっ…」

 …そのまま、振り返らずに空野さんはホームの階段を下りていき、僕は電車に運ばれる。加速する車両は景色を置き去りにして、ひとり取り残された僕は空野さんのことだけ考えて、あなたは、

(僕の、こと、)
(…好き?)

 人前でよくもこんなことを、とかそんなことよりも、ううんそんなことと片付けるのはオカシイけれど、あの人のこの行動の意味とか意図とかそれを意識して、左の胸が内側から刺されるように痛いのだ。
 近くの乗客から視線を感じ、急に恥ずかしくなって車両を変えることにした。

 飄々としているあなたの、軽々となんでもするあなたの、平気でウソを吐く唇の。感触を守るようにその場所に触れてみる。

(本当に、キス)
(本当の、キス?)

 僕が言ってみたら、あなたが好きなのかもしれないなんて、言ってしまったら。あなたの唇がまた弾むのかな。
 恐ろしい本音を正直に打ち明ける勇気が僕に、いつか、芽生えたら。