これが最後の我儘だから




 胸が奥、奥の方からツンと痛む。全身を満たしてゆくこそばゆいものが涙腺をこじ開けて涙が滲む。変化していく脳内・形の無いものに、恐怖と快感を覚えながら、必死で描き取るものは彼の姿ばかりだった。
 愛を受け入れてもらえない事態はこの世の終わりと同じだ。少なくとも俺にとって。サッカーが好きで、霧野先輩を好きになって、それだけでもう一杯になるような狭苦しい世界の中では、彼の言葉だけがエナジーだった。
 のめり込んで人を恋しく思うことが初めてだったので、告白の手順も力の加減もその方法は知り得なかった。無知でむちゃくちゃで衝動的で、この気持ちを止まらせることは自分にとって呼吸をやめることと同義だった。清潔に張られたシーツを押し倒された男の感触で乱していく。抑えきれず生まれた泥濘めいたわだかまりを溶かすには、彼を、こうするしか無いのだと、張り裂けてしまった本能が言うのだ。

「霧野センパイ、オレ」
「なんのつもりだ狩屋、なんの…」

 震えた声とうろたえる瞳で、霧野先輩が抑えつけられた腕を脚をもじもじと捩らせながら訴える。捲れたハーフパンツの下から現れた白い腿、手を添えると小さく悲鳴が上がる。

「あんたのこと、大好き、ヤバい」

 無人保健室などというお誂え向きな空間に投げ出した言葉がそっと響いて、霧野先輩はピタリと動かなくなった。

「……離せよ」

 震えていた唇がやがて荒々しく言い放ち、オレはといえば従うしか手は無く、不幸な小心者をベッドに置いて霧野先輩は乱暴にドアを開閉して部屋を去った。

「バッカじゃねぇの、畜生」

 リノリウムに膝を折る。この世の終わりなんていう大層なイメージが脳裏を掠め、ベッドに微かに残る霧野先輩の体温に顔をうずめた。…怖かった。






 当然のようにオレを避けてまわる霧野先輩の様子に、一週間も経つとサッカー部内の誰もが気を揉むようになった。伝染してディフェンス陣、フィールド内とぎくしゃくした空気が伝わってしまったのだから咎められることにも文句は言えまい。

「霧野、狩屋と何かあったのか?」

 キャプテンがそう聞いているのを偶然聞いたのは休憩中、二人が水道へ顔を洗いに行ったときだった。付いていくつもりは無かったけど、聞こえてしまったのだから仕方ない。霧野先輩はそっぽを向き、彼らしくない態度で「別に」と返していた。

「何も無いならもう少し優しくしてやれよ、同じポジションの後輩なんだから」

 霧野先輩を置いてキャプテンが水道を後にする。視線がかち合う。

「…お前もなんかしたなら謝りな」
「別にオレは…」

 言い訳を考えている間にキャプテンが行ってしまったため、一緒に引き返そうとしたが決まりが悪く止めた。恐る恐る水道へ向かうと髪を直している霧野先輩がそこには居て、悲しくもないのにやっぱり泣きそうになる。

「霧野、センパイ」
「何か用か」
「あの、この前、その」

 トゲトゲした言い方に胸を抉られながら、怯むまいと声を出す。ヘアゴムがパチンといってツインテールをつくる。前に女みてぇと言ったら強めに背中をぶたれたことさえ懐かしくて恋しい。

「すいません、どうしたら良いか分かんなかったんす」
「いいよ、別に」

 許すにしてはキツすぎる口調、嫌われているのだと思うと体の中がヒヤッとする。今にも走って逃げて行きそうだった霧野先輩の手首を掴む。

「先輩、ちょっと待って」
「…休憩終わるぞ」
「あの、確かにこの前はオレが悪かったけどさあ、でもちゃんと聞いて欲しかったし…」

 もごもご呟いているオレの周りを、霧野先輩の戸惑うような視線がうろつく。なぜか、今なら分かってもらえる、ここで押さなきゃどこで押す!という邪念が理性を攫った。思うより早く体が動いて先輩をがっちり両腕でホールド、ぎゅっと力を込める。

「あっ、おい狩屋よせ!ばか!」

 しかし無理やり剥がされ、無情にも地面に叩きつけられた。痛い。頭に血が昇り、つい反射的に霧野先輩の頬をひっぱたいてしまった。
「やば…ごめん、なさい」をオレが言い終わらないかどうかのタイミングで、怒れる先輩の平手が飛び、ついには殴り合いが始まってしまった。霧野先輩のきれいな顔に傷を付けるなどという罪は、普段の自分には(美への冒涜・軽蔑の畏れから)思い描くことさえもできない愚行だった筈なのに、一種の快感さえ覚えて彼と対決した。
 様子を見に来たらしいキャプテンの悲鳴で呼ばれた三国先輩と天城先輩にそれぞれ取り押さえられるまで、オレたちはお互いを傷つけあった。



「まーた保健室かよ」
 いっそ開き直った心持ちで沁み渡る消毒液を塗布されてみれば、なる程ここに霧野先輩からの暴力が息づいているのだと寧ろ安心を得ることができた。先週の同じ日、例の無人保健室事件の直前にオレと先輩が衝突して膝を擦りむいたことを、保健室の先生も勿論覚えていた。「サッカー部は最近大変そうねえ」呑気な声音が金曜日の教員会議へ駆け足するまで部活動の充実について適当に語り、ドアの閉まる音を聞いて次は霧野先輩を向いた。…ふと目の前の絆創膏だらけと自覚症状を照らし合わせると、なんだかばかばかしくなってとうとう大声で笑ってしまった。

「な、殴りどころ悪かったのか、ごめん狩屋」

 ぎょっとする霧野先輩が直後、ひきつらせた顔の傷に「いたっ」と小さく声をあげ、彼も同じ気持ちになったのか、口元に手をあてて笑った。

「なんすかその手、女みたい…痛って!」

 背中をバシンと叩かれた。笑い声がフェードアウトしていき、涙を拭いながら霧野先輩がぽつりと言った。

「殴り合いのケンカなんか初めてだ」
「お坊ちゃんすね霧野セーンパイ」
「…あのさあ狩屋」

 声を落とした先輩のきれいな横顔に、ついうっかり手が伸びそうになる。心と行動とがこのところ直結しがちだ。霧野先輩を好きだと思って以来の変化。恐ろしいことを知ってしまった。

「お前が突然あんな風に言うから」
「先週のこと?…キモチワルイ?」
「そういうんじゃないけど…」

 俯いたきり黙る。ごめん、呟いてみるが返事が無い。いいよ、あなたが嫌だと言うのなら、それを喜んで捨てるだろう、あなたが怖がったなら。受け入れてもらえない愛をどうしたらいいか、知ってしまった。理解してしまった。
 ただ、黙ってそれができるほど大人になんてなれっこないから「霧野センパイ」呼んで、こちらを向いた顔に、唇に触れるだけ、ドラマなんかの見よう見まねで、キスをした。

「これで、最後にするから、もう勝手なことあんたにしない、これからわがまま言わないから、全部…忘れてください」

 言い終わるや否や立ち上がり、退場を決意した。



「狩屋!」
 逃げ出した保健室から霧野先輩の声が追ってきた。へらへら馬鹿らしく笑って会えるようになるまで、顔も見たくない。…というのは勿論ウソで、切迫した声音に期待すら寄せて息を切らした霧野先輩を廊下の端で受け止めた。

「なんで追いかけてんだよ!」「そう簡単に無かったことにできるわけないだろ!」

 ほぼ同時に怒鳴った音がシンとした放課後に響き渡る。青い瞳と噛み付きあって互いの次の言葉を待ってみたのだが、黙りがあまりに続きすぎた。先輩のフッというため息が緊張を解くと、穏やかな言葉が自然と浮かぶ。

「先輩困らせてばっかだけど、オレの言ったこと全部本気だったから」
「お前が突然あんなこというから」

 さっきと同じセリフを繰り返し、霧野先輩の頬が少しずつ赤らんでいく。

「バレたかと思って、正直になるのが怖くて、お前が本気だって信じられなくて」
「…えっ?」

 思いもよらない言葉に耳を疑う。聞き返してまじまじとその顔を見ると、先輩は双眸を細めて笑った。


「狩屋、大好きだよ」







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