模写




 どこか遠くを車が通っている。それは赤、ミニカーが床の木目を滑るみたいに海沿いを渡るのだろう。 ハンドルを握る彼の気を散らさないよう、僕は必死に声を掛けることを我慢する。だから信号が車体と同じ色を示す度、ちょうど酸素の足りない魚のように僕の口は走りだすのだ。 愛を囁く時と場所、大海は眼前に赦されじ。一面が闇。街灯に照らされる横顔の鼻の辺りにスピカを見つけるだろうね。あなたに言う――愛しているのです。 カッチ。カッチ。免許をもたない僕に細部を把握する教科書は無いので、どこか分からない針と呼ぶしかない、しきりに鳴っている。昔から車遊びより人形遊びをしていた。 車の記憶はラジオの砂嵐みたいに。信号が変わる時その音が消えた気がしたけど、まだ鳴っていると言われたらきっとそうなっただろう。とにかく車は海沿いを再びなぞりだす。 なだらかな道しか無いけれど、僕よりひとつ年上の彼はそこを習字をするときみたいな難しい顔で走る。昔から慎重で考え過ぎる癖があった。どこまで走っても同じ暗さで海が鳴く。 ガラス越しに気配をじっとりと感じる。僕はどこへ行きたいのか、彼の髪の青だけがいつまでも鮮明なまま、潮騒がやがて全てを消していく。
 どこか遠くを車が走っている。枕元のマッチ箱に僕があなたを眠らせて。